オペラ版『ねじの回転』
大阪音大のオペラハウスで、オペラ版『ねじの回転』を見てきた(スタッフ・キャスト等はこちらを参照)。原作はいうまでもなくヘンリー・ジェイムズの幽霊小説で、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンがそれをオペラ化したものである。
ジェイムズの『ねじの回転』といえば、幽霊がほんとうに現れたのか、はたまた語り手の妄想なのか判然としない書きぶりで読者を不安に陥れる、いわゆる「朦朧法」を用いた傑作として怪奇小説史上に名高い。いや、一般的には「意識の流れ」を用いた現代文学の嚆矢なのだろうけど、当ブログでは断然、朦朧法怪奇小説の確立者なのである。
どちらにしても、すなおに考えれば、どうもオペラに向きそうにない素材である。いったいどう仕立てているのかと、以前から不思議に思っていた。さて実際に見てみると――やはり『ねじの回転』は、オペラには向かなかったようだ。ブリテンが『ねじの回転』の趣旨を理解していたのか疑問に思うほど、オペラ版は原作とはかけ離れていた。
何しろオペラである。幽霊がいるもいないも、大声で歌って想いのたけを語ってみせるのだ。幽霊ここにありといわんばかりの、堂々たる押し出しぶりである。目撃者が誰もいないところで庭師ピーター・クイントと前任の女家庭教師ジェスルの幽霊が内輪もめする場面まであって、曖昧なところなどまったくありはしない。
この幽霊同士の内輪もめが、懸命にすがるジェスルをクイントが冷たく袖にして少年を誘惑せんとするというもので、つまりクイントはバイセクシャルな悪魔的魅力の持ち主として描かかれている。1954年の初演では、このクイント役をブリテンの同性愛の愛人が演じたというのだが、執筆時からそのつもりの当て書きだったのではないだろうか。
『ねじの回転』は、幽霊の邪悪さを具体的に描くことは一切せず、読者に自由に想像させることで各々のうちから恐怖感を引きだそうとするところに技術上の要諦がある。幽霊は、読者のうちから現れるのである。このオペラのクイントはまさにそれで、原作のクイントそのものではなく、それに触れたブリテンのうちから生まれてきた幽霊にほかならない。オペラ版『ねじの回転』は、あくまでブリテンの創作物として味わうべきなのであろう。
また、終始ゴシック的雰囲気が濃厚なビジュアルで飾られていたのも、『ねじの回転』らしくなかった。アカデミズムの世界では、ゴシック小説と近代怪奇小説との違いなど意識されないというか、むしろ怪奇小説をゴシック小説の傍流のように捉えるのがふつうなので、『ねじの回転』もゴシック小説との関連性を語られることが多い。だが、『ねじの回転』の舞台は中世イタリアの古城などではなく現代英国の私邸であり、雷鳴鳴り響く嵐の夜どころか穏やかに晴れた白昼に平気で幽霊は現れる。彼らはおぞましい容姿や声音で目撃者に脅迫的に襲いかかるのではなく、生前の姿のままでただ黙って佇んでいるのみである。つまり、『ねじの回転』はよりリアルな怪異描写のために、アンチゴシックを志向した近代的な怪奇小説であったのだ。
ところが、今回の公演は、冒頭のブライ邸に向かう馬車の中の場面から真っ暗な舞台に朧気な灯りで照らし出すという不安感を煽る演出で、深海のような青色で埋め尽くされたブライ邸はまるでピラネージの牢獄を思わせる陰鬱さ。そこでは幼い姉弟が遊びに興じているのであるが、何だかもう、それがまた妙に恐い。忍び寄る悪の気配を真っ青な舞台と対照的に毒々しく赤いロープで象徴させ、悪が勢いを増すにつれ、一本また一本と天井から垂れさげる――原作の精神とは真逆に、ゴシック趣味を極めていたのである。
しかしながら、『ねじの回転』が原作ということを忘れてあくまで幽霊譚のオペラと割り切って見れば、こうしたゴシック的意匠は好ましい見せ場といえるわけで、実際、私も大いに楽しんだ。『ねじの回転』の完全オペラ化などもともと無理なのであり、今回のゴシック的解釈は、そうした弱点を補完してオペラの特性を最大限に活かした趣向として大いに賞賛すべきであろう。
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