カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2015/09/30

文庫版『残穢』解説拾遺

 twitterではすでにお知らせしたが、7月末に発売された小野不由美『残穢』文庫版[Amazon]の巻末解説を書かせていただいた。

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 文庫本解説の依頼を受けたのはこれが初めてで、正直なところ「これでいいのだろうか?」と戸惑いながら書いた。普段はエゴサーチなんてほとんどやらないのだけど、今度ばかりはどう受けとめられているのか気になってしまい、発売後しばらくネット上の評判をずっと見ていた。幸いにもまずまず好評をいただいているようで、ほっと胸をなで下ろしている。

 一方で、こちらが予期せぬ反応もあって、それがまた、なかなかおもしろかった。そのずれについて、少しお話ししてみよう。

 何しろ初めての経験だから、まずはこちらから担当編集者氏に「特に気をつけるべき点はありますか?」と率直に尋ねてみた。すると、「枚数は最大16枚程度、短くても構わない」ということと、「ネタバレは厳禁」の2つだけ。ほかには何ら制約はなく、自由に書いてくださいという返答であった。

 それなりの枚数がもらえたので「これなら本格的な『残穢』論が書けるかも?」とも思ったのだが、すぐあきらめることになった。『残穢』の魅力は精緻に組み上げられた語りの仕掛けにあり、それらを具体的に解析していかないことには正面から論じることができない。ネタバレを禁じられては、手も足も出せないのである。さて、どうしたものか?――呻吟している私を見て、妻はあっさりこう言い放った。

「そら文庫解説なんやから、この本がどういうおもしろさを持っているかを訴えてやね、読者が『この本、買おう!』という気になればええんでしょ?」

 ごもっとも。いま求められているのは、本格的な評論などではない。いうなれば、お化け屋敷の呼び込みのようなものなのだ。心を入れ替え、その線で構想を練り直した。

 想定読者層は、怪談ファンでも小野不由美ファンでもない。映画化のニュースで『残穢』について知ったり、書店で平積みを見掛けたりして、店頭でふとこの本を手に取るような人たち。そんな人たちが店頭でさっと通読でき、これがどういう成り立ちの本で、どういう怖さが楽しめるのかがすんなり理解できるような長さと密度の文章。まずそれを絶対的な条件とする。そうすると、枚数制限は16枚以内だが、理想はせいぜい10枚程度なのではないか。作品誕生に至る経緯や背景の説明はきっちりやるとしても、『残穢』そのものに触れないで進めるのは見開き2ページ程度が限度だろう。私のことなどまったく知らない読者の方が多いはずだから、いわゆる「自分語り」はいっさいやらない――そんな調子で、事前にルールを定めていった。

 かんじんの「『残穢』の怖さ」とはどういうものなのか。これについては、第26回山本周五郎賞の選考委員諸氏が各々の読書体験を生々しく端的に語っていたので、そのまま引用させていただく形で導入部を拵えていき、さらにそれらをまとめ直しつつ強調するフレーズを付け加えた。

「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」

 ここまでは不思議なほどすんなりと書けて、なんだかほっとした気持になった。これで解説の核ができた。この先どのように原稿が展開していこうとも、この核さえ見失わなければ、ちゃんとまとめあげられるだろう。そういう確信が持てたからだ。また、このフレーズは、編集部にも思いのほか気に入ってもらえたようで、文庫の帯や『残穢』特設サイトでの宣伝にまで使っていただいた。

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 繰り返しになるが、文庫版『残穢』解説はあくまで解説として書いたものであって、評論として書いたものではない。もしも評論的な読みどころがあるとしたら、怪異描写の写実性の追求という観点で現代怪談ブームの流れを総括したこと、その中での『残穢』の位置づけを語ったこと、その2つぐらいだろうか。だが、それらにしても厳密に論じようとしたらかなりの枚数を要し、文庫解説の枠をはみ出してしまうので、あくまで概説に止めている。

 著者小野不由美はホラーと怪談をかなり厳密に分けて意識しており、『残穢』は怪談として書いたものだと各種のインタビューで明言している。一方で小野不由美には、ホラーとしての代表作に『屍鬼』というとんでもない傑作がある。『屍鬼』は、前世紀末から今世紀初めにかけて、スティーヴン・キングに代表される海外モダンホラーのインパクトを現代日本の風土に移入しようとした作家たちの試み――すなわち、東雅夫氏がいうところの《ホラー・ジャパネスク》の一つの頂点を極めた作である。『残穢』は怪談文芸ブームの一つの極みというべき作だから、本来はこの二作を対照して論じるべきだろう。

 しかし、《ホラー・ジャパネスク》を概観するのに、いったい何枚を要するか? 想定した読者層が、そこまでホラーと怪談の違いに関心を抱くだろうか? 映画版『残穢』の方は、まず間違いなく《Jホラー映画》の1本として宣伝され、受容されるだろうから、いよいよ話がややこしくなる。やむを得ず、『残穢』と『屍鬼』および《ホラー・ジャパネスク》との関わりについて触れるのは断念し、現代怪談ブームとの関わりのみを語ることにした。

 さて、現代怪談ブームの流れを語るには、古来の伝統的な怪談との違いを明らかにせねばならない。そうすると江戸期には仏教・儒教的な道徳観の制約があり、近代に入ってからの心霊主義もまた、科学を装いながら宗教的モラルの束縛を受けていたことをきっちり語る必要がある。実際にそういう形で原稿を書き進めていたのだが、明治に入る手前でもう8枚に達してしまった。この調子ではおそらく4、5ページほども『残穢』の話が出てこなくなるし、そもそも制限枚数を大幅に超過する!――というわけで、書きかけの初稿は破棄し、大幅に省略して書き直した。

 そんな次第なので、本格的な評論を期待して文庫版『残穢』解説を読まれた場合には、ここが、あそこが……といろいろ気づかれる箇所が多いはずだと思う。言い訳めくけれど、あくまで解説として書かれたものとして、どうかご寛恕いただきたい。

『残穢』は怪談小説なのだから、それを手に取る読者は、怖がることを期待しているはずである。呼び込みに徹すると決めたからには、読者の「怖がるぞ」という気分を盛り立てなければならない。これは私が今まで書いてきた、批評や評論は本来、感情ではなく理性に働きかけるものだから、それを越えた工夫が必要なのだろう。

 だから文庫版『残穢』解説の導入部は、読者の「怖がるぞ」という気分に情緒的に訴えかけることを強く意識した書き方になっている。ところが、続きを書き進めているうちに、なんだかいつものように文章が理屈っぽくなってきてしまい、何かもう一押し、理性ではなく感情に訴えかけるべきだという気がしてきた。

『残穢』が放つ伝染する穢れの恐怖は、現代創作怪談の横綱格『リング』にも似通っている。だが、不幸の手紙ビデオ版とでもいうべき『リング』が現代風俗を取り込むことを強く意識しているのに対し、『残穢』は古来の民俗的概念に着目し近代日本史を過去へ遡っていく。それに『リング』はどこまでもよくできた作り話に徹しているが、『残穢』は姉妹編である『鬼談百景』[Amazon]を介して実話の領域にも踏み込んでいく。一見似ているようで、真逆なベクトルも持っているのだ。

 そこでまず、『残穢』の恐怖は過去志向だからこそ『リング』以上に本源的・普遍的であると説き、「誰も逃れられない」と強調した。さらに、もともとは書誌情報に絡めて解説中盤に配していた、『鬼談百景』を介した現実への侵犯に関する説明を末尾へ移動し、全文が導入部のまとめである「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」というフレーズに回帰していく構成とした。この構成によって、読者を絡めとって離さない『残穢』の恐怖を、論理ではなく感覚的に読者に訴えかけることができないかと考えたのだ。

 こうして書き上げた原稿が15枚程度。ぎりぎりまで削って14枚弱にした。目標の10枚は超過したが、これ以上削るとかえって読みづらくなるので許容範囲とした。それはよいとして、これまで自分が書いてきた文章ではあり得ないほど「煽ってるよなあ」というのが率直な感想であった。やりすぎなのではないか?……でも、呼び込みらしくはなったよな?……はたしてこれが正解なのか、ずいぶん逡巡した。迷った末に手を加えず編集部に送った結果が、ほぼそのまま本になったのである。

 読者諸氏にはおおむね好意的に受けとめていただいているようで、ほんとうにありがたい。意外にも、評論として評価してくださる方もいらっしゃるようだ。望外の喜びではあるけれど、反面、穴があったら入りたいような気持ちでもある。また、まったく予想もしていなかったような反応もあった。何と、『残穢』そのものだけでなく、私が書いた解説や帯のフレーズまでもが怖いという声が、方々からあがってきたのだ。

 私としては、読者があらかじめ抱いているはずの「怖がりたい」という気分を盛り立てようとは狙ったが、直接的に解説文や帯で恐怖を喚起しようとまでは思っていなかった。だから「ほんとにこれが怖いの?」というのが、偽らざる気持ちである。ただ一つ、なるほどと思わされたのが、『残穢』本文を読んだ後に解説を読んで、また怖くなってしまったという意見であった。『残穢』だけでも怖いのに、その怖い読後感が、私の煽り気味の解説でまた増幅されてしまったと。これはあり得る話だろう。

 ところが、それよりも「解説や帯を読んだだけで怖くなって、買えなかった」という反応の方が、なぜかずっと多いのである。私の直接の知人にまで、そんなことをいう者が二人も出てきた。これには参った。呼び込み失格ではないか……。どこでどう口コミが広がっていったのか、ついにはこんなツイートまで現れる始末。

 いやいや、私はそんなこと書いていませんって。そんな帯が付いている文庫版『残穢』は存在しない。はず――かくして、文庫版『残穢』解説と帯は、それ自体がある種の怪談になってしまった――。

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2015/07/14

Twitter始めました

 われながらあまりにも更新ペースが遅いと思い、速報はTwitterを利用することにしました。こちらでごらんください。

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2013/01/01

謹賀新年

 このブログを開設したのは2005年正月のことなので、ちょうど8年になる。昨年末にアクセスカウンターが4万を超えたのだけど、カウンターを設置したのは1年半ぐらい経ってからだったように思うので、もうそろそろ5万近いのかも知れない。Niftyのココログには過去4ヶ月間までのアクセス解析機能があって、ここ4ヶ月間では1日あたりだいたい30件ぐらいのアクセスがあるようだ。数ヶ月に1度程度しか更新していないブログなのに、ありがたいことである。

 どのような言葉を検索してこのブログにアクセスしたかも判るようになっていて、圧倒的に多いのが「ゴジラのテーマ」「社長と女店員」といったゴジラのタイトル曲の起源に関する検索ワードである。『シェラ・デ・コブレの幽霊』関連の検索ワードがこれに続き、人名ではこのフィルムの所有者「添野知生」がトップになっている。注目度の高そうな話題ではあり、まあ納得できる結果だろう。『シェラ・デ・コブレの幽霊』のエントリーは、Wikipedia日本版にリンクが掲載されたため、そこからのアクセスも多いようだ。

 さらにこの下に「呪われた者たち」嵐を突っ切るジェット機」、「「ジョン・ブラックバーン」「デニス・ホイートリー」「骸骨面」といった検索ワードが現れ、つまりは「こんなの、ほかの誰も書かないよねえ」という領域に入っていく。数年前まで、なぜだか「霊に犯される」といういかがわしげな検索ワードでのアクセスが繰り返し継続してあったようだが、そんなこと私だって書いてませんって。

 考えてみれば、私は書籍の原稿だって「こんなの、ほかの誰も書かないよねえ」というようなものばかり。ここにこそ本領があると心得るべきで、これからもニッチな領域をせいぜい極めていこうと思う。

 というわけで、皆様本年もよろしくお願いいたします。

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2012/09/09

特撮博物館と大伴昌司展

 8日(土)から9日(日)にかけて上京、東京都現代美術館の「特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」と、弥生美術館の「奇っ怪紳士! 怪獣博士! 大伴昌司の大図解」展を見物してきた。

「特撮博物館」では、大学時代からの友人であるSF作家タタツシンイチに、ひとかたならぬ世話になった。これが二度目の観覧という彼が同行してくれたおかげで、終始とまどうことなくスムーズに見物することができた。

 事前に聞いてはいたが、展示物のすさまじいまでの充実度は圧巻の一言に尽きる。混雑を避け夏休み直後の土曜日を選んだことが幸いして撮影可能エリア以外ではほとんど行列には遭遇しなかったにもかかわらず、一通り見物するのに4時間ほど要した。激しい損傷が古武士のような風格を帯びさせているメカゴジラに感嘆したり復元ではあるが鈍い銀色に輝く巨大なMJ号に陶然となったり、戦車系プロップのパーツを覗き込んでどういう市販模型の流用か推理したり――時間と体力が許せば2、3日だって過ごせてしまいそうだ。バーチャルなデータなどではなく現にそこにある物を撮影するという、ミニチュア特撮ならではの楽しさを満喫させてもらった。

 タタツとは「東映系作品のプロップがないね」などと話していたのだが、そこまで盛り込んだら1日ではとても見きれなくなってしまうことだろう。そう考えると、もう少し小規模でも常設で展示物を入れ替えていけるような場所ができればなあと思わずにはいられない。もしそれが実現すれば、押川春浪以来の万能戦艦の歴史だとか、パラボラ光線兵器の発展を追うとか、もっともっと凝った展示を試みることもできるのではないだろうか。今回の催しはかなり好評のようなので、何らかの形で次につながって欲しいと強く思う。

 次につなげるという意味では、単なる懐古的な展示にとどまらず新撮作品の「巨神兵東京に現る」を製作上映したことは、英断であった。過去の技術の再現だけではなく、さまざまに新しい試みが取り入れられていたのが素晴らしく、撮影現場の熱気をまざまざと伝えるメイキングビデオにも感動させられた。

 しかしながら、純粋に映像作品としてみた「巨神兵東京に現る」には、少々疑問を感じずにはいられなかった。わずか9分の上映時間という制約があるにしても、巨神兵襲来に至る状況をナレーションのみでむりやり詰め込むように説明してしまう手法は、およそ映画的とは言いかねる。しかも、そこで語られる虚無的なストーリーも無機質で突き放した口調も、ただ寒々しいばかりで何の感銘も与えてくれない。

 巨神兵の先輩にあたる怪獣たちは、そんな寒々しいものだったろうか? そんなことはない。怪獣は確かに恐ろしい破壊の権化であるが、同時に不可解なまでに人を引きつけて止まない、驚嘆すべき存在であったはずだ。したがって、怪獣を語るにふさわしい口調は「巨神兵東京に現る」のような青臭く気取った無関心などでは断じてない。恐怖にせよ戸惑いにせよ賛嘆にせよ、狂おしい熱を帯びていなければならないはずだ。

「奇っ怪紳士! 怪獣博士! 大伴昌司の大図解」展は、そうした怪獣への熱い想いを新たにさせてくれる好企画だった。大伴昌司はウルトラ・シリーズの製作に直接かかわった人物ではないため、怪獣ブームに便乗しただけのように語られることもある。だが、彼が創案した怪獣図解が、消費されていくやられ役ではなく長く愛され続けるスターとしての怪獣像を創りあげるのに、大きな貢献があったことは間違いない。今回展示されていた怪獣図解の肉筆原稿の数々には、どれも細かいアイデアや画家への指示などがびっしりと書き込まれていて、大伴の怪獣図解が安易にブームに乗じた商魂の産物ではなく、彼なりに怪獣を愛しその魅力を追究していったまなざしに根ざしたものであったことを、雄弁に証している。映画やドラマを作っていなくとも、大伴昌司はやはり日本怪獣文化の重要な担い手の一人であったのだ。

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2010/07/31

2010年7月の読了書から

 激安AndroidタブレットEken M001を買った第一の理由は、国会図書館近代デジタルライブラリーの電子書籍を快適に読めるのではないかという期待であった。近代デジタルライブラリーでは、蔵書をスキャンした画像データをJPEGもしくはPDFとして公開しているので、レイアウトは実物の本のまま変更できない。したがって画面の小さな端末では、まるで紙の本をルーペで読んでいるようでつらい。かといって、ノートPCやデスクトップPCで読むのも窮屈だ。本に近い感覚で読め、取り回しできる端末が欲しかったのである。

ここでポイントとなるのは、1行の表示領域がどれだけ確保できるかである。1行の端から端までが画面に収まっていないと、読み進むのにかなりストレスを感じる。つまり結局のところ、文庫をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ文庫サイズの画面が要るし、新書をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ新書サイズの画面が要るということだ。若い人たちなら、解像度が高ければ実寸より少々小さい画面になっても読めるのだろうが、老眼が始まっている私のような世代には実寸準拠でないとつらい。

 そういう意味ではIPadやKindle DXのような10インチ級の画面が理想だが、端末の寸法や重量がそれなりに大きくなってきて、取り回しや携帯性にやや難が出てくる。ぎりぎり許容できるサイズを検討した結果、7~8インチ程度ではないかと考えた。Eken M001の7インチ画面の長辺は約15cmと、おおよそ四六判の1行の印字長と同程度だから、これならまあ何とかなるはずだと。

 ところが、実際にはそう簡単にはいかなかった。近代デジタルライブラリーでダウンロードできるPDFは、JPEG2000形式の画像データから作られている。この形式のPDFを読めるビューアソフトが、Androidにはまだ無かったのである。仕方がないので、PCのブラウザに表示されるJPEG画像データを1枚ずつダウンロードした。この画像がまた、本の周りに大きな余白が入っているという代物なので、PCの画像編集ソフトで印字範囲のみになるようにトリミング。これをSDメモリーカードでM001に移して、画像閲覧ソフトで読むという方法を採った。画像のトリミングはVIXというWindowsの画像ビューアソフト、Androidでの閲覧はDroid Comic Viewerを用いた。結果はこのとおり。

M001

 準備に恐ろしくめんどうな作業が必要であり、M001のタッチパネルの精度が今ひとつで誤動作にいらつかされることもあるものの、PCの画面で見るよりはずっと紙の本に近い感覚の読書環境ができあがった。そこで読んだのが下記の3冊。

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『豪傑児雷也』(大阪:中川玉成堂、明42.3)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『勇婦綱手』(大阪:中川玉成堂、明42.10)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『大蛇丸』(大阪:中川玉成堂、明43.3)

 前々月に読んだ『快傑自来也』が何だか期待はずれだったせいもあって、正調の児雷也が読みたくなったのである。この三部作は合巻の『児雷也豪傑譚』系で、書名の通り蛞蝓の綱手姫と大蛇丸が加わって三すくみの趣向となる。児雷也は盗賊ではあるが、その目的はお家再興のための軍資金集めにあり、弱きを助け強きを挫く義侠心を持つ。ストレートな悪役である大蛇丸の登場により児雷也はますますヒーロー化していき、最後には罪も許されて宿願を達成する。ヒロインの綱手姫は蛞蝓の術を使うのみならず、数人力の怪力を奮う。やたらと強いのに運命の人である児雷也にはデレデレというギャップが可愛らしい。まるで最近のマンガやアニメのヒロインみたいで、児雷也物も現代向けにアレンジすればけっこう受けるんじゃないだろうかと思った。

 この本に限らず、日本古来の怪談や伝奇物の概要を知るには、話し言葉で書かれており読みやすい講談速記本がもっとも手軽である。とはいえ、実物の古書はそれなりに高価だし状態が良くないものが多い。無料で電子書籍版が読める近代デジタルライブラリーは、実にありがたい。

 以下は紙の本。

佐藤至子『妖術使いの物語』(国書刊行会)[Amazon]
 日本の古典文芸・芸能に現れる妖術使いたちの姿を一般向けに概説したもの。「隠行の術」「飛行の術」「分身と反魂の術」というように見せ場としている術の種類によって系統を分けて紹介していて、たとえば「蝦蟇の術」の章を読めば、私が先月読んだ『快傑自来也』が天草四郎や天竺徳兵衛まで絡めた話になっていたのは、切支丹の妖術使いのイメージから蝦蟇の妖術使いが生ずる系譜を遡り統合する試みであったことが判る。平易な文章で書かれていて図版も多く、楽しくためになる本である。
『日本幻想作家事典』の伝奇時代劇映画/ドラマの項目は最終的にはSF系ヒーローへの推移に重きを置いた書き方にしたが、当初は主題別に系譜を追うことも検討していた。だが、かんじんの映画そのものの方が、こうした古典的な妖術師たちの系譜はほぼ戦前の映画で途絶えていてフィルムもほとんど残っていないため、断念したのである。同じ古典でも怪談物の主題は戦後までかなり受け継がれているのに、どうしてこうも差が生じたのだろうか。どうにか戦後も生き残ったといえるのは里見八犬伝と児雷也だけで、あとは全滅である。もちろんSFヒーローの台頭が一因となっているのだろうが、それにしてももったいないと思う。

大島清昭『Jホラーの幽霊研究』(秋山書店)[Amazon]
 Jホラー映画ブームから現代日本人の霊魂観を読み取ろうとしたもの。霊の実在を信じる一方で宗教による救済を持てないことが、Jホラーが得意とする止めなく増殖していく荒涼とした恐怖を生んでいるという指摘が興味深い。著者はそれを現代日本人の精神的な危機の現れと捉えている。とはいえ、霊魂の否定がただちに救いになるわけでもないし、いまさら宗教が救いになってくれるのかというと……。考えるほどに、ホラーとはまた違った寒々とした怖さに襲われる。

ステファヌ・オードギー『モンスターの歴史』(創元社)[Amazon]
 ヨーロッパを中心とした怪物に関する文化史──なのだが、空想上の怪物だけではなくて身体的な異常や精神的な病をもつ人々をも含む「異形の物」の文化史というべき本であった。広範な話題をうまくコンパクトにまとめているが、参考文献からの抜粋が巻末にまとめて掲載されている構成がちょっと読みづらい。

中島春雄『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)[Amazon]
 ゴジラを始めラドン、バラン、バラゴンなど、東宝特撮映画で多くの怪獣を演じた俳優の自叙伝。着ぐるみ方式の怪獣特撮は、当然ながら演技者の巧拙によってリアリティに大きな差が出てしまう。全盛期の東宝に較べて以後の着ぐるみ怪獣特撮がどこも今ひとつ精彩を欠くのは、中島春雄に匹敵する着ぐるみ俳優を育てられなかったからでもある。本書はどうやら聞き書きをまとめたものらしく、たいへんくだけた文体で読みやすい。特撮の現場ばかりでなく、撮影所所属の大部屋俳優の日常がいきいきと語られており、日本映画が元気だった時代の貴重な証言となっている。
 ただし、いくらか誇張も混じっているようにも思う。たとえば、怪獣同士の殺陣について、著者は円谷英二がすべて自分に一任したという。おそらく実際にそういうカットもあったのだろうが、操演の絡む尾を使ったアクションや事前の準備が必要なミニチュア絡みのカットなどは、着ぐるみ演技者の一存で仕切れるはずがない。しかしまあ、これぐらいは自伝や聞き書きには付きもの危険というべきだから、それによってこの本の価値が減じるとまではいえまい。

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2008/12/31

おっとどっこい生きている

 何とまあ、1年ぶりの更新である。あれこれ忙しいのもあるけれど、一度習慣が途切れると再開するのはなかなか……。今回ようやく踏ん切れたきっかけは、1年ぶりという節目がひとつと、もうひとつがこの本。

『KAWADE道の手帖 吉屋信子 黒薔薇の處女たちのために紡いだ夢』(河出書房新社)[Amazon]
 この吉屋信子についてのムックに東雅夫氏が「吉屋信子の怪奇幻想小説について」という論考を寄稿されているのだけど、文中で映画版の『鬼火』に絡めて拙ブログがかなりのスペースを割いて引用紹介されており、非常に驚いたのだった(引用元の記事「映画『鬼火』を見る」はこちら)。

 紹介していただけたのはこのブログが優れているからでも何でもなくて、こんなマイナーな映画について書いている物好きがそうそういないからであることは、言うまでもあるまい。そう、このブログはもともと、書籍はもちろんネットを検索してもなかなか情報が得られないようなホラー関係の話題を、自分なりにわずかなりとも提供できないかと考えて始めたのだった。今回、東氏の論考を拝読して、いつまでも休眠させていてはいけないな、とあらためて思ったのである。

 当面はまず遅れに遅れている『日本幻想作家名鑑』の作業を終わらせてしまわねばならず、ブログにそう時間を割くわけにはいかないのだけど、できる範囲で更新していくつもりであります。

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2007/08/12

家族旅行広島・宮島編

 お盆休みということで、家族5人で広島・呉に一泊旅行をしてきた。本命のお目当ては実物の潜水艦の内部が見られると話題になっている呉の「てつのくじら館」なのだけど、たいへんな混雑のため朝から並ばないといけないそうで、初日は広島市内と宮島を観光して夕食後呉に移動、2日目に「てつのくじら館」と「大和ミュージアム」を見学するという日程にした。

 10時すぎに広島駅に着くとまず土産物売り場を覗き、隠れた広島名物と伝え聞く「せんじ肉」を1袋購入した。これは豚の胃を煮詰めて揚げたもので、独特の珍味だというのである。ところがネットでは美味いという意見とちょっと勘弁という意見が混在していて、実際どうなのか気になっていた。案外、大阪では子供がおやつにしているホルモン焼に近いものかもと思ったり……。さっそく食してみると(下品にも歩き食い)、塩辛い味付けの固く粘り気のある肉で、くちゃくちゃしがむほどに旨味がしみ出してくる。いかにも内臓らしいくせはあるものの、ホルモン焼のようなべたべた泥臭い味と比べると、ごく上品だといっていいぐらい。おやつとしては塩辛すぎる気がするしご飯のおかずには固いので、お酒のあてにするのが最適かも。

 続いて宮島に移動し、厳島神社を見物。ところが、あまりの暑さと移動時間が長くて退屈してきたせいか、小学2年生の三男がえらく不機嫌になってしまった。もともとこらえ性のない男なので、そういうこともあるだろうとは思っていたが、こうも早いとは……。まあ外を歩くにはあまりにも暑かったこともあり(この夏最高の暑さだったらしい)、ほどほどで切り上げて近くの店で昼食にした。名物のあなごめしである。これはびっくりするような旨さだった。脂がよく乗っているがウナギほどくどくなく、香ばしい。これまで食べてきたアナゴ料理とはぜんぜん別物で、値段の相場は1500~2000円ぐらいとやや高めだが、それだけの値打ちはある。ちなみに、私たちが食べたのは「いな忠」という店。店によって調理の仕方が多少違ったりするらしい。

 また広島市街に戻り、原爆ドームへ。印刷物や映像では見慣れている建物だが、生で見るとまた違う感銘がある。実物のドームと平和記念公園を含めた周囲の空間の広がりに触れ、原爆投下後の廃墟と化した広島市街の写真を対比することで、原爆の破壊力がより具体的にイメージすることができるように思う。この後、私と長男次男は広島平和記念資料館へ、妻と三男は広島市こども文化科学館へと二手に分かれた。広島観光に来て平和記念資料館を外すわけにはいかないのは当然として、まだ幼く人一倍臆病な三男には、原爆の被害の生々しい展示は刺激が強すぎるだろうと判断したのである。だからこそ教育的な効果は大きいという考え方もあろうが、同じくらい恐がりだった私の子供時代の反応の記憶に照らし、迷った末に決めたのだ。

 平和記念資料館はお盆休みだけに非常に混雑していて、三男と同じ年ごろの子供もちらほらいた。三男も連れてきた方がよかったのかなあと、また思ってしまった。館内では、自分にできる範囲だけでも子供たちに解説してやろうと思っていたのだが、ほとんどできなかった。紋切り型の表現だけど、事実の重さにやはり言葉を失ってしまうのである。ただ、明日は呉で潜水艦や戦艦の展示を見に行くわけだが、それらも規模こそ違えど原爆と同じ兵器であることには変わりなく、使われれば人がむごたらしく死ぬということと、そういう力を持つべきかどうか行使すべきかどうかは、自分で考えて自分で判断しなければならないということだけは、はっきりと伝えた。例によって、「またややこしいこというてんなあ」てな反応だったが。

 平和記念資料館そのものの意義には疑問の余地はないが、展示の方法については改善すべきところもあるように感じた。VTRに依存している展示が多いために、この日のような混雑時には、客の流れがひどく滞るのである。入館してすぐのところにもう長いVTRがあって、なかなか前に進めないのには参った。その後も、VTRモニターがある度に人溜まりができてしまっていて、しかもモニターが低い位置にあるために後ろからは何も見えないこともあった。また、原子爆弾の原理やメカニズムについての解説がわかりにくいことや、原子力発電に関する議論や核兵器の拡散傾向についてなど現代の核問題の関する展示の不足なども、物足りなく思った。原子力問題を絡めるのは、いろいろと差し障りがあるのだろうけど。より根元的な問題というべき、非戦闘員を標的とする戦略爆撃の是非についても言及があっていいように思うが、そこまでやると手を広げすぎだろうか。

 原爆ドームに戻り妻たちと落ち合って、市街を散策しつつ広島駅方面へ向かった。夕食は駅近くのビルで広島風お好み焼き。確かに慣れ親しんでいる関西のお好み焼きとは似て非なる料理で、これもまた旨い。具材を混ぜ込まず薄皮の生地に挟んで焼くので、具材も混ぜてパンケーキ状に焼く関西風と比べると、焦げ付かないようにするのには技量が必要とされるのではないだろうか。夕食後JR呉線で呉市に移動して、ホテルにチェックイン。

 とにかく暑い一日だった。歩いているだけで汗をびっしょりとかき、へとへとになってくる。色の濃い服を着ていたので、汗の塩分が白く結晶してくるほど。そこで意外にも役だったのが、せんじ肉だった。味見のために開封したものを道々口に放り込んで、塩分を補給したのである。しかし、カロリーを考えると問題ありですな。携帯用梅干しとかにしないと。食事の度に生ビールをがぶ飲みしてるし、これではいくら歩いても汗かいても痩せませんって。

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2007/04/22

あちら立てればこちらが立たぬ

 しばらく更新が滞ってしまった。その間のバタバタの話。

 まず、現在改訂新版の編纂作業中である東雅夫・石堂藍編『日本幻想作家名鑑』(国書刊行会)のお手伝いをすることになった。なんとホラーではなく特撮で。今回の改訂では付録の形で映像作品についても言及するのだそうで、その資料作りのお手伝いである。来年刊行予定なので長丁場の作業ではあるが、早く方針を固めて取りかからないとどえらいことになるのは目に見えている。幸いゴールデンウィークが迫ってきているので、連休は特撮漬けかな──と思っていたら、今度は例年より半月ほど早く怪談専門誌『幽』から書評依頼が来た。新刊・旧刊で2本、〆切はゴールデンウィーク明け。さらに5月9日に『幽』怪談文学賞授賞式という案内を頂戴したのだが……。

 本業が日・祝のみ休みなので、こう固まるとどうにもこうにも。〆切がある書評を優先するのは当然として、連休中に特撮に強い友人2名と落ち合って半日ほど掛けて策を練る段取りをする。その前に、打ち合わせ用の資料は整理しておきたい──というような状態なので、大型連休明けの平日に本業を休んで東京に行くというのは、とても無理。せっかくご案内いただいたのにたいへん申し訳ないけれど、『幽』怪談文学賞授賞式は欠席させていただくことにした。

 あとは、本業で突発事が起きないことを祈るばかり。

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2005/07/03

古書を買わない旅だってあるさ

 愛・地球博の翌日は、名古屋市内を観光した。久屋大通公園名古屋テレビ塔名古屋城という、絵に描いたような観光コース──と言いつつ、実は『モスラ対ゴジラ』でのゴジラの襲来コースだったりする……。狙ったわけじゃないけど、何となくそうなった。やっぱり怪獣は、身長50mぐらいがいいですなあ。都市を蹂躙できるだけの破壊力を感じさせつつも、足下の人間と絡んで絵になる絶妙のバランスだと思う。平成ゴジラの100mは、でか過ぎるよ。
 その後は名古屋駅前の地下街に移動して、遅めの昼食にみそカツを食べた。初体験のみそカツは、珍味という感じでもなく、ごくふつうに美味かった。濃厚な甘さだが、ビールと良く合う。これならソース味のトンカツと併存して全国に広まってもおかしくないと思うのだけど、あのタレを作るのが難しいのだろうか? 
 昼食を済ませると、そのまま新幹線で帰阪。珍しく、地元の古書店には一軒も立ち寄らなかった。たまには家族サービスに徹することもあるのだ。名古屋ぐらいなら、後日一人で日帰り古本行脚も可能だし(費用を度外視すれば、だが……)。しかし、何も本を買わないのは癪なので、駅前地下街の新刊書店に入り、新幹線内で読むためのマンガを一冊だけ買った。

福島聡『機動旅団八福神』第1巻(エンターブレイン)[bk1][Amazon]
 近未来の不穏な日本を舞台に、軍隊に入って着ぐるみのようなパワードスーツ“福神”で戦うことになる若者たちを描く長篇マンガ。某誌のマンガ・レビューで誉められていたのを思い出して買ったのだが、いかにもマンガ・マニア向けなマンガで、どうも私には合わなかった。お好きな人には申し訳ないけれど、恐らくは作者が工夫を凝らしているつもりであろう箇所がどれも作為が見えすぎるような気がして、いちいち引っ掛かるのである。恐らく、マンガ慣れしている読者なら平気なのだろうが……。
 当たり前の話だが、マンガに詳しい人が誉めているからといって、必ずしも万人向けとは限らないのだ。もちろんそれは、私がこれまで書いてきたホラー系書評にも当てはまってしまうのかも知れないのだけど、マンガは表現の手法の幅が広い分、小説以上に好みが分かれる場合が多いのではないだろうか。

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2005/07/02

やつらは本気なのか!?

 親子5人で愛・地球博に行って参りました。スケジュールがぎりぎりまで決まらなかったせいで企業パビリオンの予約は取れず、長時間並ぶ気力も元より持ち合わせてはいないので、行列の短い外国館を中心にぶらぶらと見て回ることに。ワニ肉バーガー喰ったり、やしの実ジュース飲んだり、シシカバブつまんだり、のんびり楽しく過ごして来ました。

 会場内で何よりも驚いたのが、日陰があまりにも少ないこと。行列する場所も、各パビリオン間の移動用の回廊もまったく屋根がない。終日薄曇りだったから良かったけれど、晴天だったら倒れていたかも。これからますます暑くなるのに、どうするのだろう。

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 混んでいるところは避けたせいで、各館の展示はおおむね地味な印象だったのだが、その中でロシア館だけは特別気合いが入っていた感じ。マンモスの全身骨格と子マンモスの剥製が間近で見放題なのは有名だけど、個人的にもっと感銘を受けたのは、宇宙開発と航空機関係の展示物。ほとんど縮尺模型ばかりながら、水素エンジン使用の新型スペースシャトルとか、一般の飛行場から発着して衛星軌道を周る旅客機とか、昔の少年誌の図解グラビアに出ていたような流線型のメカがあれこれ並んでいた。

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 いちばん凄かったのがこれ。やたらとでかそうな飛行艇だなあ──と、近づいて上から見ると……な、何と、トラックやヘリコプターが何台も中に詰まってる……本気か? まあロシアなら道路や鉄道、港湾が未整備な地域もまだまだあるのだろうが、それにしても巨大飛行艇での空輸に頼るというのは、いったいどういうケースを想定しているのやら。

会場では詳しい説明がぜんぜんないので、気になって帰宅してからネットでも調べてみたけれど、どうもそれらしいものが見つからない。ひょっとして、いままで極秘扱いだった構想を初公開したのだろうか。それとも万博向けのハッタリとか?

 ともあれ、レトロなSFメカがお好きなら、愛・地球博のロシア館はお勧めです。

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