カテゴリー「音楽」の記事

2011/10/16

オペラ版『ねじの回転』

 大阪音大のオペラハウスで、オペラ版『ねじの回転』を見てきた(スタッフ・キャスト等はこちらを参照)。原作はいうまでもなくヘンリー・ジェイムズの幽霊小説で、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンがそれをオペラ化したものである。

 ジェイムズの『ねじの回転』といえば、幽霊がほんとうに現れたのか、はたまた語り手の妄想なのか判然としない書きぶりで読者を不安に陥れる、いわゆる「朦朧法」を用いた傑作として怪奇小説史上に名高い。いや、一般的には「意識の流れ」を用いた現代文学の嚆矢なのだろうけど、当ブログでは断然、朦朧法怪奇小説の確立者なのである。

 どちらにしても、すなおに考えれば、どうもオペラに向きそうにない素材である。いったいどう仕立てているのかと、以前から不思議に思っていた。さて実際に見てみると――やはり『ねじの回転』は、オペラには向かなかったようだ。ブリテンが『ねじの回転』の趣旨を理解していたのか疑問に思うほど、オペラ版は原作とはかけ離れていた。

 何しろオペラである。幽霊がいるもいないも、大声で歌って想いのたけを語ってみせるのだ。幽霊ここにありといわんばかりの、堂々たる押し出しぶりである。目撃者が誰もいないところで庭師ピーター・クイントと前任の女家庭教師ジェスルの幽霊が内輪もめする場面まであって、曖昧なところなどまったくありはしない。

 この幽霊同士の内輪もめが、懸命にすがるジェスルをクイントが冷たく袖にして少年を誘惑せんとするというもので、つまりクイントはバイセクシャルな悪魔的魅力の持ち主として描かかれている。1954年の初演では、このクイント役をブリテンの同性愛の愛人が演じたというのだが、執筆時からそのつもりの当て書きだったのではないだろうか。

『ねじの回転』は、幽霊の邪悪さを具体的に描くことは一切せず、読者に自由に想像させることで各々のうちから恐怖感を引きだそうとするところに技術上の要諦がある。幽霊は、読者のうちから現れるのである。このオペラのクイントはまさにそれで、原作のクイントそのものではなく、それに触れたブリテンのうちから生まれてきた幽霊にほかならない。オペラ版『ねじの回転』は、あくまでブリテンの創作物として味わうべきなのであろう。

 また、終始ゴシック的雰囲気が濃厚なビジュアルで飾られていたのも、『ねじの回転』らしくなかった。アカデミズムの世界では、ゴシック小説と近代怪奇小説との違いなど意識されないというか、むしろ怪奇小説をゴシック小説の傍流のように捉えるのがふつうなので、『ねじの回転』もゴシック小説との関連性を語られることが多い。だが、『ねじの回転』の舞台は中世イタリアの古城などではなく現代英国の私邸であり、雷鳴鳴り響く嵐の夜どころか穏やかに晴れた白昼に平気で幽霊は現れる。彼らはおぞましい容姿や声音で目撃者に脅迫的に襲いかかるのではなく、生前の姿のままでただ黙って佇んでいるのみである。つまり、『ねじの回転』はよりリアルな怪異描写のために、アンチゴシックを志向した近代的な怪奇小説であったのだ。

 ところが、今回の公演は、冒頭のブライ邸に向かう馬車の中の場面から真っ暗な舞台に朧気な灯りで照らし出すという不安感を煽る演出で、深海のような青色で埋め尽くされたブライ邸はまるでピラネージの牢獄を思わせる陰鬱さ。そこでは幼い姉弟が遊びに興じているのであるが、何だかもう、それがまた妙に恐い。忍び寄る悪の気配を真っ青な舞台と対照的に毒々しく赤いロープで象徴させ、悪が勢いを増すにつれ、一本また一本と天井から垂れさげる――原作の精神とは真逆に、ゴシック趣味を極めていたのである。

 しかしながら、『ねじの回転』が原作ということを忘れてあくまで幽霊譚のオペラと割り切って見れば、こうしたゴシック的意匠は好ましい見せ場といえるわけで、実際、私も大いに楽しんだ。『ねじの回転』の完全オペラ化などもともと無理なのであり、今回のゴシック的解釈は、そうした弱点を補完してオペラの特性を最大限に活かした趣向として大いに賞賛すべきであろう。

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2007/01/14

「ゴジラのテーマ」の知られざる真実?

 前項に引き続き、『ミステリ・マガジン』2月号[Amazon]掲載の、大林宣彦と石上三登志による対談「『ゴジラのテーマ』の知られざる真実──映画的教養と伝統から成り立つ美談」について。

 この対談記事の「知られざる真実」とは、伊福部昭による「ゴジラのテーマ」(『ゴジラ』第1作(1954)のタイトル曲)のルーツが柳家金語楼主演の喜劇映画『社長と女店員』(1948)であることを発見したというものだった。『社長と女店員』は名画座などでもまず上映されないような映画なのだが、一昨年の秋にCSの衛星劇場で放映された。それをたまたま見ていた石上三登志は金語楼の似顔絵を使ったコミカルなタイトル映像にゴジラのテーマがかぶさるのに仰天、友人の森卓也に電話をかけたのだそうだ。二人は「きっと気づいたのは、日本でわれわれ二人だけなんじゃないかと大笑いしました」という。森卓也は同じ旋律がサスペンス映画『蜘蛛の街』(1950)にも使われていることも見つけ、ここから大林と石上は、伊福部昭がまず『社長と女店員』でこの旋律を初めて使用し『蜘蛛の街』『ゴジラ』と使い回したが、『ゴジラ』があまりにも有名になったため以後は転用しなかったので、「ゴジラのテーマ」として定着してしまったのだろうと推測している。

 では、どうしてそれが「映画的教養と伝統から成り立つ美談」なのか? 石上三登志はこの対談記事を発表することについて、映画評論業界の大御所である双葉十三郎に相談したのだそうだ。双葉は石上の話を聞いて、「それは美談だね」といったという。

石上 デリケートな問題なので、まず相談したんです。そしたら双葉先生がおっしゃるには、「ゴジラ」がなければ、せっかくの名曲が消えていただろうとね。そんな名曲を「ゴジラ」が救いとった……。

 映画は一本だけで成り立っているわけではない。過去に名作も駄作も合わせて膨大な蓄積があって、その上で新しい映画が作られていく。そういう歴史を見通して映画を語る視座を、若い世代に伝えていかなければならない。それがこの対談記事の本旨だというのである。その主張自体は、映画好きなら誰しも異論のないところであろう。

 だが、実は「ゴジラのテーマ」の旋律は、伊福部が戦時中から作曲を始め1948年1月に発表した純音楽作品「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲」(のち2度改訂され「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」と改題)にすでに使われている。『社長と女店員』の公開は同年の12月。つまりこの時点でもう流用なのである。『社長と女店員』ルーツ説は、「知られざる真実」どころか事実誤認でしかない。「ゴジラのテーマ」の旋律の正しい起源については、伊福部昭に関する研究書にはもちろんレコードやCDのライナーなどにも明記されており、ゴジラ/伊福部ファンにとってはほとんど常識となっている。たとえ知らなくても、「ゴジラのテーマ」についての記事を発表しようとするなら、まずこういった基本的な資料をチェックするべきではないのか。

 だいたい伊福部昭は、純音楽でも映画音楽でも頻繁に旋律を編曲し直して使い回すことで有名なのである。ファンの間では、「ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ」に『キングコング対ゴジラ』でコングを空輸する場面の曲の一節があるとか、吉村公三郎監督の祇園を舞台にした女性映画『偽れる盛装』のタイトル曲は『サンダ対ガイラ』のメーサー殺獣光線車マーチそっくりだとか、意外なところで馴染みの旋律が顔を出すのを語り合い楽しむことが定着してから、もう四半世紀ほどになるぐらいだ。ゴジラ/伊福部ファンは、若い映画ファン層の中でも際立って「映画的教養と伝統」を楽しむことに親しんでいるというべきだろう。

 もちろん『社長と女店員』についても、日本中で気づいたのが石上三登志と森卓也の二人だけだったはずがない。ネットを検索すれば個人のブログなどで驚きを報告している例は見つかるし、今はdat落ちして見られないが2ちゃんねるの懐かし邦画板の伊福部関連スレッドにも放映後間もなく書き込みがあって、私が『社長と女店員』のタイトル曲のことを初めて知ったのもその書き込みによってだった(ただし、CSは受信契約していないので、映画そのものは見ていない)。

 なのに大林宣彦と石上三登志は、彼らが「発見」した『社長と女店員』のタイトル曲とゴジラのテーマの関係が、ゴジラ・ファンによって封殺されるのではないかなどというおよそ根拠のない危惧を表明している。そればかりか、視野の狭いファンに遠慮して伊福部昭がこの流用を隠そうとしていたとまでいうのである。

石上 (前略)二〇〇二年が東宝の七十周年で、引き出物が「ゴジラ」の限定ナンバー付きDVDでした。そこに収録されている特典映像が伊福部さんへのインタヴューです。当然のようにインタヴュアーはあの曲の創造の原典を聞きたがるんですが、本当に話しにくそうに回避していましたよ。
大林 ファンを傷つけたくなかったんでしょうね。日本の国の文化の貧しさですよ。「いやあ、あの曲は他の映画で二度も三度も試みていましてね」と話が自由にできたときに「ゴジラ」の映画の価値も増しますよ。
(中略)
石上 ファンにいいたいんだけど、伊福部昭さんを「ゴジラ」にだけ閉じこめていたらいけませんよ。

 東宝創立70周年記念の限定『ゴジラ』DVDについては、私はネット上のどこかで(ネットオークションの出品だっただろうか?)情報として見かけたことがあるだけで実物を知らないのだけど、ソフトとしては一般販売されているDVDと同内容だったように記憶している。もしそうだとしたら、伊福部昭のインタビューには石上がいうような隠蔽の気配はまったく見あたらない。いや仮定を抜きにしても、あるはずがないのだ。前述の通り「ゴジラのテーマ」の起源については、伊福部の生前から何度も活字になっているし、伊福部自身が監修した「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」のCD[Amazon]の解説にも明記されているからだ。それに、伊福部が日本の純音楽作曲家としても映画音楽作曲家としても異例なまでにレコードやCD発売の機会に恵まれているのは、ゴジラおたくを中心にしたファン層が、特撮映画で馴染みの旋律を自在に変幻させる伊福部の作曲術を熱烈に支持してきたからなのである。対談の中で大林宣彦と石上三登志は、自分たちが『ゴジラ』を誹謗するはずがないと繰り返しているけれど、上に引用したような発言は、伊福部昭とファンの間で培われてきた絆を踏みにじる無思慮な言い草だといわれても仕方あるまい。

 この対談でも大林宣彦自身「当時、一映画ファンとしてこの「ゴジラ」に接した僕は名作とも思わず、日本でも怪獣映画を作ったかぐらいの感じでした」といっているぐらいで、そもそもこの二人は『ゴジラ』を始めとする日本の怪獣映画には決して好意的ではないことで知られていた。石上三登志に至っては、積極的に批判を展開してきたといっていいほどである。もちろん、批判すること自体は何ら問題ではない。事実を踏まえ、論理的な整合性を保った上ならば、だが──。たとえば石上は、彼の代表的な『ゴジラ』論である「ゴジラ 未熟怪獣の白昼夢」(『吸血鬼だらけの宇宙船』所収)で、伊福部昭が『ゴジラ』に付したレクイエム風の音楽について「『海ゆかば』調のメロディ」と評しているのだけど、、『ひろしま』『ビルマの竪琴』といった日本映画史上屈指の反戦映画を彩った音楽のバリエーションに属することを踏まえた上でなのかどうか。いずれにせよ、「映画的教養と伝統」を重んじた評言とはとてもいえないだろう。

 そういえば、自分が「ゴジラのテーマ」の出自を知ったのは、いったいいつのことだったか? そう思った私は、記憶を頼りにSF映画専門誌『スターログ』のバックナンバーを調べてみて、なんともやるせない事実に行き当たった。私の記憶にあった記事とは、『スターログ』1979年3月号(通巻No.5)の門倉純一による連載「SFサウンド」第5回「伊福部昭の世界その2」であった。門倉はこの連載第4回と第5回を費やして伊福部昭の国産SF映画での業績を振り返り、さらにゴジラ・ファンたちの熱烈な支持によって特撮映画のみならず、それまでほとんど顧みられなかった日本映画のサントラ盤までがようやく商業ベースに乗るようになりつつあることを紹介している。そして、「ゴジラのテーマ」の旋律が「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」からの流用であることにも言及していたのだ。

 この門倉純一による伊福部音楽の紹介と同時期(通巻No.4、6)に、大林宣彦と石上三登志が関わっていたあるゴジラ関係の記事が『スターログ』に掲載されていた。当時ゴジラ・ファンの怒りを買った悪名高い絵物語「スペースゴジラ」である。大林宣彦と石上三登志の原案から平田穂生が脚本化し、大友克洋と白山宣之がイラストを付けたというこの絵物語は、糖尿病(!)で瀕死のゴジラが日本の海岸に漂着するというショッキングな場面で始まる。その脳から取り出した意識からゴジラがゴジラ星から飛来した知的生命体で名はロザンであることが判明、日本政府はゴジラの体をロケットに改造して打ち上げ(!!)、胎内に見つかった子ゴジラ・リリンともどもゴジラ星に返そうとする。ロザンはゴジラ星に辿り着き夫クーニンと再会を果たすも、母星はスフィンクスに似た女性ばかりの半獣人スネリアの侵略を受けており、成長したリリンと父クーニンは「怒ると、巨大なオッパイからは火を吹き、ヘソからはカギ十字の手裏剣が飛び、目からはクモの巣が吐きだされる」(原文のママ!!!)おぞましいスネリアのガモニ将軍と対決することになる──と、まるでゴジラのキャラクター・イメージを汚すためだけに作られたのではないかといいたくなるような代物なのである。まあ、後に本家東宝が作った『ゴジラVSスペースゴジラ』(偶然タイトルが共通するだけで、この絵物語とはまったく無関係)もたいがい頭の痛くなるような映画ではあったが……。

 ともかく、大林宣彦と石上三登志がゴジラについての記事を発表しているのと同じ雑誌で同時期に、「ゴジラのテーマ」の起源についても伊福部昭とゴジラ・ファンとの間に映画的教養と伝統から成り立つ絆が形成されつつあることも、はっきり書かれていたのである。実に27年も前に、「ゴジラのテーマ」にまつわる真実は二人の目の前にあった。ところが彼らは、それを見ようともしなかったのか、あるいは見ても忘れてしまったらしいのだ。石上三登志は今回の対談の中で、「膨大な過去があることを踏まえず、自分に都合のいい部分だけでやっていると、オタクの落とし穴にはまってしまう」と警句を放っているが、それをまず心に留めねばならないのはいったい誰だろう? 大林宣彦のいうとおり、確かに日本の映画文化はまだまだ貧しいかも知れない。こんな対談記事が、映画関係のプロの仕事としてまかり通ってしまうのだから。日本の映画文化を貧しくしているのは、この二人のように自分のすぐ目の前にどのような文化が華開いているかを見ようともしない人々ではないのか。

【追記】
「ゴジラのテーマ」のほんとうのルーツ「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」に触れてみたい方には、伊福部昭自身の監修により作成されたCD「伊福部昭の芸術5 楽 協奏風交響曲/協奏風狂詩曲」(キングレコード)[Amazon]をお勧めします。

【追記その2】(2007/01/18)
 本文内に、主に映画データの関連リンクを埋め込んだ。そのついでに、我ながらあまりに文章がくどく長く感じていたので、ところどころ手直しして全体にスリム化を心掛けた(でも、まだまだくどい)。
 なお、「ゴジラのテーマ」の旋律の起源については、「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」からさらに遡って、ラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調」の影響を指摘する説もある。日本版Wikipedeiaの「伊福部昭」内の「誕生日とラヴェルの逸話」を参照。

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2005/01/15

『来るべき世界』とアーサー・ブリス

 1月9日のえべっさん詣でから帰ると、Amazonから荷物が届いていた。中身はというと、1936年にイギリスで公開されたSF映画『来るべき世界』で音楽を担当したアーサー・ブリスの映画音楽集CD"The Film Music of Sir Arthur Bliss"(Chandos Records)[Amazon]。昨年末に発売されたDVDソフト『来るべき世界Things To Come』(紀伊國屋書店)[Amazon]で初めてこの映画を観て、いたく感銘を受けたのである。

 『来るべき世界』は、H・G・ウェルズの原作・脚本を巨額の制作費を投じて映像化した大作で、後代のSF映画における未来都市造形のお手本となったいう扱いはされているが、実際にちゃんと観ている人は少ないのではないだろうか? ネットを検索しても、具体的な感想や紹介はあまり多くはないようだ。

 時代設定は1940年、英国内の架空の都市エヴリタウンが、戦争に巻き込まれていく描写から映画は始まる。第一次大戦の記憶がまだ生々しく、かつナチの台頭により次の戦争を予感せずにはいられないという時代に作られただけあって、一見平和な都市に戦争の影が忍び寄ってくる緊張感はかなりのもの。ある夜、ついに敵機の大編隊が来襲、猛烈な爆撃にエヴリタウンは壊滅してしまう。映画公開の4年後、奇しくも映画の設定と同じ年に英国は実際にナチの空爆に晒されたわけだが、この映画を観ていた人々は映画の悪夢が現実になる光景を目の当たりにして、いったいどのような気持ちだっただろうか。

 この後、戦火は世界中に拡大していくわけだが、この映画で描かれる「来るべき大戦」は第二次大戦後のわれわれが抱くイメージとは違って、核兵器ではなくガス兵器と生物兵器による疫病であり、瞬時壊滅ではなく果てしない持久戦なのである。実物の兵器とこの映画のためにデザインされたミニチュアの兵器が入り混じる戦闘シーンは、今日の目で見ると技術的にはまだまだ未熟だが、不思議な生々しさがあっておもしろい。

 長年に亘る戦乱により文明社会は崩壊の危機に晒されるが、1970年には秘かに力を蓄えていた技術者集団の結社が世界統一に乗り出し、秩序を再建していく。世界中が中世のような封建社会に退行しようとしているというのに、パルプマガジンそのままの奇抜なデザインの飛行メカとぴちぴちスーツの操縦士がいきなり現れるのにはびっくり。ちょっと無理があるような……でも、エヴリタウンを牛耳る悪者領主を討伐する大空挺作戦が楽しいから許そう(笑)。巨大な作業機械が恐竜さながらに這い回り、エヴリタウンが新たな文明の中心である壮麗な地下都市として再建されていく一大特撮ショーは、息を呑む迫力である。恐らく、『サンダーバード』のメカや『妖星ゴラス』の南極基地建設のイメージは、このシーンの多大な影響を受けているのではないだろうか。

 こうして21世紀に人類は理想郷を実現するのだが、衣食が足りるとまた別の悩みが出てくるのが世の常。映画の公開時からちょうど100年後の2036年、進歩と合理的精神を無批判に是とする技術者たちの専横を快く思わない一派が台頭し、またもや不穏な雰囲気に。ついには、進歩の象徴というべき月探検宇宙船の発射を力づくで止めようする暴徒が発射台に押し寄せる騒ぎになるが、指導者側は彼らを発射の衝撃に巻き込んでもなお、打ち上げを強行する。この宇宙船が、自力推進のロケットではなく巨大な大砲で打ち上げるという形式のもの。映画の制作当時でも少々時代遅れの発想だったらしいが、そこがまた趣がある。小さな光点となって広大な宇宙を行く月探検船を仰ぎつつ、人間はとどまるべきではないという指導者の宣言で、映画は幕となる。

 見終わると、実際には89分の映画なのにもかかわらず、内容の濃さゆえに2時間超の大作を観たような充実感がある。科学技術礼賛で終わるラストに不満を感じる向きもあろうが、ウェルズの構想ではこの後さらに、芸術家が活躍する人類の真の成熟時代が描かれるはずだったという。とはいえ、特定のキャラクターに張り付くのではなく文明全体の動きを鳥瞰しようとする視野の広さは、現代の映画産業には望みようもないものであり、やはり後世に残る名作というべきだろう。

 そして、この映画の壮大なスケール感の一翼を担っているのが、アーサー・ブリスの音楽である。イギリス現代音楽の代表的な作曲家の一人でありながら一部の現代音楽に見られる非人間的な傾向は嫌ったというブリスのスコアは、正攻法の管弦楽のスタイルを堅持しており、情感豊かで非常に格調高い。

 時代的にもマックス・スタイナーの『キング・コング』のスコア[Amazon]と並ぶSF映画音楽の古典と言えるが、あくまで効用音楽に徹している感のあるスタイナーの『キング・コング』と較べると、ブリスの『来るべき世界』は音楽の自律性を重く見ているようで、より純音楽に近い印象を受ける。ブリスに惚れ込んだウェルズが、映画本編の制作よりも作曲を先行させたせいもあるのだろうが……。先に録音された音楽に合わせて映像を編集したという地下都市の建設シーンは、冒頭の演説以外はセリフも効果音も一切無しに映像と音楽だけで新たな文明の誕生を雄弁に描ききっており、見どころの多いこの映画でも屈指の名場面となっている。

『来るべき世界』のスコアはブリス自身によって組曲化され、映画公開に先だってコンサートで演奏されたり、公開に併せてサントラ盤も発売され、大いに評判になったという。組曲版はブリス自身の再アレンジの他、バーナード・ハーマンら別の作曲家が手掛けたものなどいくつかのバージョンがあるらしい。"The Film Music of Sir Arthur Bliss"には、『来るべき世界』の音楽が全11曲トータル約32分収録されているが、これはそれらの組曲ではなく、楽譜が失われているという映画に使われた音楽の復元を試みたものだそうだ。そのうち組曲版のCDも入手したいと考えている。

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