カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2014/12/11

川北紘一と「装甲巨人ガンボット」

 11月23日に家族全員で名古屋まで出かけ、名古屋市科学館で開催中の特撮博物館を観覧してきた。来春は三男が高校を受験するので、ゆったり名古屋観光とはいかず、日帰りの強行軍となった。そんな無理をしてまで行ったのには、やむを得ない事情がある。特撮博物館は次回に予定されている熊本県で、全国巡回を終了してしまう。残念ながら、私たちの住む大阪へはやって来ないのだ。家族では私だけが一人だけ東京で見てきたので、「大阪に来たら通いつめようか」なんて、子供たちと語らっていたのに。

 貴重な国際児童文学館を廃止統合してしまい、独自の伝統文化である文楽すら守る気もないような町だからなあ……などと、なんとなく納得できてしまうところもあるのが、ますます情けない。橋下市長よ、道頓堀川プール化とか、誰も喜ばない、しょーもない企画をひねくってる場合か!? 特撮の授業もある大阪芸術大学がこんなに頑張っているのに、コラボして特撮博物館を誘致常設化するぐらいやってみせい! 有効利用されず遊んでる場所は、なんぼでもあるやないか!

 特撮博物館名古屋展は、初回の東京展と較べると会場の規模が小さく、特撮技法を解説する展示を中心にいくらか内容が削られていたものの、やはり素晴らしかった。初体験の子供たちと妻は夢中になり、二度目の私もまたもや陶然となった。もう、展示期間中は名古屋に転居しちゃおうかと思ってしまったぐらい。

 ただ――やはりというべきか――新作映像の上映展示『巨神兵東京に現わる』にだけは、全員揃って首を傾げてしまったのだった。いったいどうして、あんな気取りばかりの中二病くさいドラマに仕立ててしまったのか? 東京展の感想で一度このブログに書いたことだが、あえて再掲しておく。

 巨神兵の先輩にあたる怪獣たちは、そんな寒々しいものだったろうか? そんなことはない。怪獣は確かに恐ろしい破壊の権化であるが、同時に不可解なまでに人を引きつけて止まない、驚嘆すべき存在であったはずだ。したがって、怪獣を語るにふさわしい口調は「巨神兵東京に現る」のような青臭く気取った無関心などでは断じてない。恐怖にせよ戸惑いにせよ賛嘆にせよ、狂おしい熱を帯びていなければならないはずだ。

 妻はもう一つ、「なんで生身の人間がわーって逃げるとこを入れへんかったんやろ? あれが醍醐味ちゃうのん?」としきりに愚痴っていた。これももっともな意見である。ミニチュアでどこまで撮れるかを追求したという製作者側の狙いも理屈としては解るのだけど、特撮のおもしろさをアピールするという意味では、生身の人間との合成カットは、やはり必要だったのではないだろうか?

 私たち家族の名古屋行きを挟むようにして、ある新作の特撮番組が大阪ローカル局の深夜枠で放映されていた。平成ゴジラ・シリーズを担った川北紘一特技監督が、大阪芸術大学の学生たちと作った『装甲巨人ガンボット 危うし!あべのハルカス』である(こちらで予告編が見られる)。たまたま私たちは、特撮博物館の観覧後まもなくクライマックスの第3、4話を視聴することになったのである。

 もとよりこれは、まともな製作費を投じた純粋な商業作品ではない。脚本はベタベタに類型的なプロットをなぞるだけで何ら新味がなく、俳優の演技は学芸会レベル、防衛隊の基地も科学研究所もハルカスの中で撮っているのが丸わかり。最大の売りである特撮も、技術的に「巨神兵東京に現わる」にはとうてい及ばない。だがしかし――よけいな理屈は一切廃し、邪悪な敵をヒーローが倒す様をいかにかっこよく見せるかに全力を注いだ演出姿勢。ミニチュアで再現された都市が破壊され、そこを生身の人間が逃げ惑うスペクタクル。そしてそして! フィニッシュがあの「流星人間ゾーン」から受け継いだ、もっともアナログ特撮らしい必殺技〈流星ミサイルマイト〉!!何のことか判らない方は、こちらのブログを参照)――「装甲巨人ガンボット」には「巨神兵東京に現わる」に欠けているものが、すべてあった! 最終回を見終えた私は、声に出してつぶやかずにはいられなかった。「特撮博物館で上映すべきだったのは、『巨神兵東京に現わる』じゃなく『ガンボット』だったんだ」と。

 奇しくもこの「装甲巨人ガンボット」最終回の放送当日に、川北紘一がこの世を去っていたことが、今日、発表された。彼の代表的な業績である平成ゴジラ・シリーズは、興行的には大成功を収めつつもきびしい批評に晒されることが少なくなかった。だが、もし川北紘一の活躍がなかったら、1990年代の日本特撮がずいぶんさびしい状況になってしまっていたのは、間違いないはずだ。彼の熱い特撮魂は後進たちに受け継がれ、いつかきっとまた大輪の花を咲かせるに違いない。

 さて、今夜、私たち家族が川北監督の追悼鑑賞会に選んだのは、もちろん平成ゴジラ――ではなくて、『流星人間ゾーン』第15話「沈没! ゴジラよ東京を救え」だ! ゾーンファイト、パワー!!

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2014/09/07

大ゴジラ特撮展

 阿倍野ハルカス内にある大阪芸術大学スカイキャンパスで開催中の「大阪芸術大学Presents 大ゴジラ特撮展~ゴジラ60年の軌跡~」を見てきた。

 こういう実物プロップの展示イベントは、なかなか大阪で開催してくれないのだが、今回は平成ゴジラ・シリーズを支えた大森一樹と川北紘一のコンビが大阪芸大の教授を務めているおかげで実現したようだ。キャンパスを利用したために東京での会場よりも若干狭く展示物も少なくなっているらしいが、それでもゴジラファンならば必見だろう。

 会場の配置はこんな感じで、特撮博物館と較べると規模ははるかに小さいものの、撮影可能箇所はこちらの方が多い。

 まず入口では、『ゴジラVSデストロイア』(1991)のゴジラジュニアが出迎えてくれる。

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 男前ですな。

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 平成コーナーのデスゴジ着ぐるみノーマルリペイント版(って説明で、解る人がどれだけいるのかな?)。これは特撮博物館でも展示されていたが、今回は撮影も許可されている。

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 中の人が入っていないので、ちょっと猫背なのがプリティ。

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 同じく平成コーナーの、『ゴジラVSメカゴジラ』版メカゴジラレプリカ。

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状態はよいけど、きれいな置物という印象。

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『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)の三式機龍改の着ぐるみ。

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これは凄い迫力だった。

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『劇場版 超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち』(2005)の海底軍艦轟天号。

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オリジナルの昭和版轟天号と較べるとデザインはあれだけど(苦笑)、作り込みはかなり細かい。

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 特撮博物館がミニチュア主体という感じだったのに対し、こちらは怪獣の造形物がメインという印象。撮影は許可されていないが、ミレニアムシリーズのゴジラ5体や、スペースゴジラ、平成モゲラ、ファイナルウォーズ版のアンギラス、キングシーサー等々。新作海外版『ゴジラ』の宣伝も兼ねているから、子供が喜ぶ怪獣をたっぷり見てもらいましょうということなのだろう。

 もっとも感銘を受けたのが、『ゴジラ対ガイガン』(1972)で使われたキングギドラ着ぐるみの頭部であった。もはや崩壊寸前の状態で、あいにく撮影も許可されていなかった。しかし、単に東洋風の竜というに止まらず、般若のようなおどろおどろしい怒りの形相を採り入れることによって、宇宙から飛来した悪竜というキャラを強調してみせた見事な造形は、はっきりと見て取れた。

『三大怪獣地球最大の決戦』(1964)で利光貞三が作ったオリジナルのギドラ頭部がその後数本の映画の撮影で激しく損傷したために、『ゴジラ対ガイガン』撮影時に後継者の安丸信行が新造したとも言われているが、人気怪獣のイメージを損なわないようにオリジナルのデザインをできるだけ尊重しているように見えた。キングギドラは平成シリーズ以降も繰り返し新たなデザインで登場しており、それぞれに好きなつもりだったのだが、こうして昭和ギドラの顔を間近に見ると「ああ、これこそキングギドラだ。俺にとってのギドラはこれしかない」と思わずにはいられなかった。この展示会ではこのギドラ頭部を起点に2004年の『ゴジラ FINAL WARS』まで、小林知己、若狭新一、品田冬樹といった造形作家たちが様々に解釈して作り上げた怪獣像の変遷を追うことができるわけだが、やはり昭和時代の泥臭くも力強い造形にこそ、怪獣本来の荒々しい魅力があることを痛感させられたのであった。

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2013/08/04

傑作怪談ラジオドラマ『山霧の深い晩』復活!

 昨年夏に本ブログでもご紹介した昭和20年代の傑作怪談ラジオドラマ『山霧の深い晩』が、8月14日午後8時からTOKYO FMで放送されるそうだ。今回の放送についての詳細はこちら。

山霧の深い晩 - Tokyo FM
この夏、内臓にしみる恐怖を・・・倉本聰 潤色・演出 究極のホラー・ラジオドラマ『山霧の深い晩』

元のラジオドラマについては、ネット上の紹介では本ブログの記事がもっとも詳しいのだが(自画自賛)、結末を完全にバラしているのでご注意を

『霧の夜の恐怖』と『山霧の深い晩』(ネタバレあり!

「倉本聰潤色・演出」となっていて、北条秀司の脚本のままではないようだ。上掲のウェブサイトに出ている抜粋を読む限りでは、少なくとも時代・風俗をアップトゥデートしている模様。あえて昭和20年代設定のままにしてもおもしろいのではないかとも思うが、聴取者にできるだけ生々しい恐怖を感じて欲しいという狙いなのだろう。放送時間が1時間40分もあるようだけど、そんなに長い脚本だったろうか? 倉本聰も出演すると書かれているので、元のラジオドラマや今回の復活放送について自ら語るのかも知れない。

 残念ながら東京ローカルの放送なので、私は直接聴取することができない。聴取可能な地域にお住まいの皆さんは、決して聞き逃さないように。脚本でも読んでも非常に恐ろしいドラマなので、心して聞いていただきたい。また、埋もれたままになっている怪奇幻想系ラジオドラマの秀作はほかにもまだ多いようなので、今回の試みがそれらの復活にもつながっていくことを期待したい。

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2012/11/19

『呪われた者たち』本邦初公開

 10月16日、WOWOWで『呪われた者たち』が放送された。原題は『The Damned』、アメリカ版タイトルは『These are Damned』。イギリスのハマー・プロダクションが、硬骨の反体制派映像作家として名高いジョゼフ・ロージーの監督により1961年に製作し63年に公開したSF映画である。日本では劇場未公開のままテレビ放映もソフト販売もなく、文献のみにより隠れた名作として知られていたものが、限定的な形ではあるがついに初公開されたことになる。

 私は輸入DVDでこの映画を一足先に見ていたのだが、今回の放送も父に録画してもらって(あいにく私は視聴契約していないので……)、立て続けに2度見てしまった。そういう取り憑くような力を持つタイプの映画なのである。一言で表現するならば、ジャンル越境的な異形の作ということになるのだろう。冷戦を背景に、英国政府が少年少女を被験者にした秘密実験を行っているという物語なのだが、そうした要約からはおよそ想像が付かないような奇妙な語り口で撮られている。しかも、その異形ぶりが奇を衒っているとか壊れているとかいうのではなくて、主題とがっちり組み合って機能しているところに、舌を巻かされるのである。

 それでこれからその魅力を私なりに語ってみようと思うのだが、どうしてもプロットの核心に触れる必要があって、いわゆるネタバレになってしまう。もちろん、それぐらいでつまらなくなってしまうほど脆弱な映画ではないものの、できるだけ予備知識が少ない状態で見た方が、より衝撃が増すのも間違いない。未見の方はできればここで読むのを止めて、11月22日に予定されているWOWOWでの再放送をご覧いただきたい。また、リージョン1かつ英語字幕しかない輸入DVDではあるが『The Icons of Suspense Collection:Hammer Films』というBOXセットでも見ることができる。このブログを読まれているような方であれば、がっかりするようなことはまずないはずなので、ぜひご覧いただきたい。

 映画の舞台はイングランド南岸の保養地ウェイマス。保険会社を退職し、自前のヨットできままな観光に来ていたアメリカ人中年男性サイモン・ウェルズ(マクドナルド・ケリー)は、街角で魅力的な若い女性ジョーン(シャーリー・アン・フィールド)と出会う。だが、これはジョーンの兄で不良青年団のリーダーであるキング(オリバー・リード)の仕組んだ美人局で、サイモンはキングたちにこっぴどく殴られた上に財布を奪われてしまう。負傷したサイモンはカフェに運び込まれ、たまたま居合わせた政府の関係者バーナード(アレクサンダー・ノックス)と女性彫刻家フレヤ(ヴィヴェカ・リンドフォース)たちに手当てを受ける。

 黒革のジャケットに身を包んだキングの配下たちの暴れる場面には、「Black Leather,Black Leather,Kill Kill Kill!」と物騒な歌詞だがやけに陽気な曲が付されている。劇伴音楽として流されるだけでなく、彼らが口ずさんだり口笛で奏したりまでするものだから、耳について離れなくなってしまう。ハマー・プロの怪奇/SF映画ではおなじみの恐怖音楽の巨匠ジェイムズ・バーナードが作曲しているのだが、こんなポップな曲も書けたのかと、いまさらながらその多才さに驚かされる。

 キングはジョーンに対して異常なまでに執着しており、ジョーンが団のメンバーと親しくなることすら許そうとしない。ジョーンはそんなキングの拘束を疎ましく感じており、自由に生きているサイモンに惹かれていく。サイモンも、ひどい目に遭わされたにもかかわらずジョーンに惹かれ、ヨットに飛び乗ってきた彼女を連れてキングから逃れようとする。映画の序盤はこうした奇妙な三角関係が焦点になっており、SF映画というよりも自暴自棄で無軌道な若者たちを描く風俗映画のようである。

 わずかに、カフェでのバーナードとフレヤの対話の中で、バーナードがウェイマス近郊の軍の施設で機密計画に従事していることがちらりと触れられ、上映時間25分過ぎあたりでようやく、施設内の様子が描写される。そこでは9人の少年少女が何らかの事態に備えて英才教育を受けているようなのだが、教育はすべてテレビモニター越しに行われており、大人たちはなぜか子供たちと直には接しないのだった。

 町外れの海岸に逃げ延びたサイモンとジョーンは、人間や動物の焼け焦げた焼死体にも似た奇怪な彫刻が立ち並ぶフレヤのアトリエに忍び込み、愛を交わす。しかし、そこにもキングたちが迫り、追い詰められた二人は軍の施設を囲っているフェンスを乗り越えてしまう。二人と後を追ってきたキングは相次いで崖から海に落ち、施設内の少年少女に助けられる。ここまでで約40分。ほぼ中盤になって、やっとSF映画らしくなり始める。

 子供たちに助けられたサイモンらは、彼らの肌に触れて驚愕する。まるで死人のように冷たいのである。しかも3人は正体不明の悪寒に悩まされ、どんどん気分が悪くなっていく。それもそのはず。子供たちは全員、放射線漏れ事故の犠牲となった母親から生まれ致死量の放射線を発する特異体質となった、いわば人間ゴジラだったのだ。バーナードたちは核戦争後にも大英帝国を存続させるために、放射能の中でも生きられる彼らを施設の地下に閉じ込め、跡継ぎとして育成していたのである。サイモンたちは、彼らを追って黒い防護服に身を包み地下へ降りてきた軍人たちを辛くも打ち倒し、子供たちを伴って地上に逃れ出る。だが、その先に待ち受けているのは、おそらくSF映画史上もっともおぞましいクライマックスである。

 初めて浴びる陽の光や広大な外界に戸惑いながらも、感動に震える子供たち。しかし、バーナードたちが彼らを見逃すはずもない。黒い防護服の男たちがわらわらと忍び寄り、泣き叫び抵抗する子供たちを次々と捕まえていく。サイモンとジョーンも捕らえられるが、バーナードは彼らにヨットに戻るように告げるのみで放免する――子供たちの放射線を浴びたせいで、二人ともまもなく死んでしまうはずだから……。

 キングは彼を慕う少年を連れて自動車で逃れようとし、軍用ヘリが後を追う。執拗な追跡とどんどん悪化していく体調に観念したキングは、少年を降ろすと独り車に乗ったまま橋から海へ突っ込んでいく。たまたま子供たちの脱出地点に居合わせたフレヤは一部始終を目撃してしまい、バーナードを激しく非難する。フレヤを愛しているバーナードは、彼女を救おうとして計画に参加することを勧めるが、フレヤは承諾しない。やむなくバーナードは、自らの手で彼女を射殺してしまう。

 サイモンとジョーンの乗ったヨットが海を走る。その後にぴたりと貼りついて監視している軍用ヘリ。サイモンはジョーンにすべてを忘れて一からやり直そうと声を掛けるが、ジョーンは衰弱し朦朧としつつも戻って子供たちを救うことを主張する。承知したサイモンは、船を反転させる。ヘリに追跡されながら走り続けるヨットの俯瞰ショットで、映画は幕を閉じる。

 罠に掛け痛めつけた男に平気ですり寄る女と、騙され痛めつけられたのに懲りずに女を受け入れる男。衝動に身を任せて生きていく彼らのような愚か者たち以外のいったい誰が、自らの命を捨ててまで、近づく者を死に追いやる毒を放つ子供たちを助けようなどとするだろうか? そして、そんな愚かさの他にはもはや、われわれが縋れるものは残っていないのではないか?

 恐ろしくも悲しい結末によって、この映画の一見SFらしからぬ前半部が、周到な伏線であったことがはっきりする。キング一党の闇雲な暴力と、それをアリのように踏みつぶしてしまう国家による暴力。キングの拘束から逃れようとするジョーンのあがきと、軍の秘密施設から脱出しようとする子供たちの叫び。フレヤの奇怪な彫刻と、迫り来る核戦争の惨禍のイメージ――映画を構成するすべての要素が、狂気に支配された冷戦時代を告発する主題を強調するために、周到に配置されていたのである。

 この独特の味わいは映画独自のものなのか、それともある程度はH・L・ロレンスによる原作小説『The Children of Light』に由来するものなのだろうか? 原作を読んで確かめてみたいと思っているのだが、この映画のカルト的人気のせいで古書相場があまりに高く、手を出せないでいる。ともあれ、悪役も含めてすべての登場人物を哀れむべき人間として描くヒューマニズムや、動的なカメラワークが生むダイナミックなスケール感等、他のハマー映画とは明らかに一線を画す独自性はジョゼフ・ロージーの功績に間違いない。

 いや、ハマー・プロを貶めるような言い方は慎むべきだろう。この映画が、『原子人間』(1955)に始まり『恐怖の雪男』(1957)等を経て『火星人地球大襲撃』(1967)に至る、リアリスティックな雰囲気とシニカルな視点が特徴的なハマー・プロ産SF映画の流れがあればこそ生まれたことも、また事実なのだから。

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2012/09/30

『ナイトランド』第3号と那智史郎

 今春、衝撃的に創刊された海外ホラー&ファンタジー専門誌『ナイトランド』も、気がつけばもう3号目。当初はクトゥルー神話中心だった翻訳小説の掲載作が、号を重ねるほどに幅を広げていっているのは喜ばしい限りである。しかし、私にとって今号の目玉は、昨年夏に亡くなったホラー翻訳・研究家那智史郎を偲ぶ2つの記事であった。1つは笹川吉晴が那智の業績を詳述した「向こう側の世界へ――夕ぐれの散歩者」、もう1つは朝松健が那智との交流を振り返った回想録「那智史郎さんのこと」。レイ・ブラッドベリの追悼特集に添えるかのように載せられているのだが、おそらく今後とも他誌ではこれだけ大きく那智史郎のことを取り上げるたりしないだろうし、いっそのことブラッドベリなんて超メジャー作家は他誌に任せておいて、大々的に那智史郎追悼特集をぶちあげてもよかったのではないか。

 那智史郎というと、クトゥルー神話と『ウィアード・テールズ』系パルプホラーの邦訳紹介者という認識が一般的であろう。私も彼の名を知ったのは、国書刊行会のアンソロジー『真ク・リトル・リトル神話大系』第1、2巻(1982)によってであった。当時高校生であった私はこれらによってその後の読書傾向を決定づけられたようなもので、それから大学時代にかけては文字通りのクトゥルー漬け。大学のサークルのたまり場で、買ったばかりの『真クリ』シリーズの続刊を広げていて、ある女性の先輩に「そんなものにお金をつぎ込むぐらいなら、『世界幻想文学大系』でも買えば?」と、言われたこともあった。

 知名度では『真ク・リトル・リトル神話大系』全10巻に譲るものの、書物としての完成度では『ウィアード・テールズ』全5巻(1984-85,国書刊行会)もすばらしかった。作品の邦訳にとどまらず、パルプマガジンの実物を手にした瞬間の感動を少しでも分かち合いたいという趣旨で、判型・装丁に挿し絵や広告まで再現してしまったという、ある意味究極というべきアンソロジーである。前記の朝松健の回想によると「世間的には全く評価されなかった」とのことだが、私は熱狂した。

 かように私に多大な影響を及ぼした『真ク・リトル・リトル神話大系』シリーズだったが、ただ一つ納得できないところがあった。「白蛾」と号の入った那智史郎による挿し絵である。当時でも商業出版ではおよそあり得ないような古めかしく泥臭い画風で、学生にとっては高価で贅沢な箱入りのがっしりしたハードカバー本を飾るにしては、あまりにも稚拙に思われたのである。不満というよりも、「どうしてこんな絵を付けるのだろう?」とただただ不思議でならなかった。

 その疑問は後年、思わぬところで氷解した。『日本幻想作家事典』の作業のために国産幻想映画・ドラマに関する資料を漁っていた私は、またもや那智史郎に導かれることになった。戦後間もない時期の大映の現代スリラー路線を包括的に語った『大映戦慄篇 昭和二十年代探偵スリラー映画』(2003,ワイズ出版)[Amazon]と、劇場版『笛吹童子』に始まる東映の連続活劇映画「娯楽版」シリーズを論じた『東映娯楽版コレクション 戦慄と冒険の映画王国』(1999,ワイズ出版)[Amazon]の2冊である。前者はそれまでほとんど時代劇ばかりだった国産ホラー映画が現代物に乗り出すきっかけとなり、後者は時代劇の伝統から後の特撮変身ヒーロー物を生み出す母体となったシリーズである。ともに国産幻想映画史上きわめて重要な位置を占めるものであるはずなのに、これまで日本の映画史研究ではほとんど無視され続けてきた。それぞれを映画史上の一つの潮流として捉えて本格的に紹介したのは、おそらくこれらの那智史郎による研究が初めてだったのではないか。私は「あの那智史郎がこんな仕事もしているとは」と意外に思いつつも、その慧眼に大いに啓発された。

 大映の現代スリラー路線や東映娯楽版が映画史研究で冷遇されてきた理由は、はっきりいってしまえば個々の作品の質があまり高くないからである。語るに値しないものだと見なされたのだ。那智史郎にしても、これらを名作と持ち上げているわけではない。ここはちょっと……などとあれこれ文句を付けつつも、愛すべきB級作品として紹介しているのである。上記二著には映画公開時の広告がふんだんに掲載されており、特に大映現代スリラー映画の広告は、時代が近いせいもあって那智が邦訳紹介したパルプ・マガジンの誌面に似通った、バタ臭くどろどろした雰囲気がある。そういえば、嵐寛寿郎が幽霊となって宙を飛ぶ『白髪鬼』(1949)といい、ゴリラに噛まれた岡穣二が獣人と化す『鉄の爪』(1951)といい、大映の現代ホラー映画のバタ臭く荒削りな味わいは、日本の伝統的な怪談と隔絶しているのみならず後の国産現代ホラーにも見られないもので、パルプホラーのそれに近しいといえるのではないか。

 ここに至って、私はようやく気づいた。那智史郎が『真ク・リトル・リトル神話大系』に付した自筆画は、こうした味わいに対するこだわりを意図的に表現しようとしていたのだと。那智にとって、パルプホラーを飾るのは、現代風に洗練されたイラストではだめなのであり、懐かしくも泥臭いイラストこそがふさわしい。装丁と誌面を完全再現しようとした『ウィアード・テールズ』全5巻にしても、そうした那智史郎のこだわりの結晶だったのだ。

『ナイトランド』第3号に朝松健が寄せた「那智史郎さんのこと」には、90年代末に国産ホラー小説をジャンルとして確立させようとしていた朝松健に対し、那智史郎が「今のホラー小説はつまらない」とこぼしたというエピソードが紹介されている。当然、朝松はそんなことはないと反論したのだが、那智はそれに対しては反駁せず、それきりになってしまったという。このくだりを読んだ途端、私は反射的に「惜しい!」と思った。那智の反応はいわゆる立派な大人の態度であって、朝松健との友情のあり方に、私のような第三者がとやかくいう筋合いはもちろんない。だが、こうした対立こそが、新しい何かを生み出すことにつながる場合もあるはずだ。朝松らの尽力は功を奏し、後に国産ホラー小説は大きな花を咲かせた。しかし、もしもこのときの那智史郎の違和感が朝松とともに突きつめられていたなら、ひょっとしてその花に何かまた違う彩りが加えられていたのではあるまいか。

 国産ホラー小説ブームは、ホラーを娯楽小説のジャンルとして定着させるという大きな成果を見事に挙げたものの、後に続く怪談ブームに吸収されたというのが偽らざる現状であろう。よくもわるくも、日本はやはり怪談の国であった。那智史郎がブーム初期の国産ホラー小説に抱いた違和感とはどのようなものだったのか、それはもはや知りようがない。だが、パルプホラーや大映現代スリラーといった彼が偏愛した作品たちの味わいからして、那智史郎のこだわりが日本の怪談文化に収まりきらないところにあったのは、間違いないように思うのである。

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2012/09/09

特撮博物館と大伴昌司展

 8日(土)から9日(日)にかけて上京、東京都現代美術館の「特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」と、弥生美術館の「奇っ怪紳士! 怪獣博士! 大伴昌司の大図解」展を見物してきた。

「特撮博物館」では、大学時代からの友人であるSF作家タタツシンイチに、ひとかたならぬ世話になった。これが二度目の観覧という彼が同行してくれたおかげで、終始とまどうことなくスムーズに見物することができた。

 事前に聞いてはいたが、展示物のすさまじいまでの充実度は圧巻の一言に尽きる。混雑を避け夏休み直後の土曜日を選んだことが幸いして撮影可能エリア以外ではほとんど行列には遭遇しなかったにもかかわらず、一通り見物するのに4時間ほど要した。激しい損傷が古武士のような風格を帯びさせているメカゴジラに感嘆したり復元ではあるが鈍い銀色に輝く巨大なMJ号に陶然となったり、戦車系プロップのパーツを覗き込んでどういう市販模型の流用か推理したり――時間と体力が許せば2、3日だって過ごせてしまいそうだ。バーチャルなデータなどではなく現にそこにある物を撮影するという、ミニチュア特撮ならではの楽しさを満喫させてもらった。

 タタツとは「東映系作品のプロップがないね」などと話していたのだが、そこまで盛り込んだら1日ではとても見きれなくなってしまうことだろう。そう考えると、もう少し小規模でも常設で展示物を入れ替えていけるような場所ができればなあと思わずにはいられない。もしそれが実現すれば、押川春浪以来の万能戦艦の歴史だとか、パラボラ光線兵器の発展を追うとか、もっともっと凝った展示を試みることもできるのではないだろうか。今回の催しはかなり好評のようなので、何らかの形で次につながって欲しいと強く思う。

 次につなげるという意味では、単なる懐古的な展示にとどまらず新撮作品の「巨神兵東京に現る」を製作上映したことは、英断であった。過去の技術の再現だけではなく、さまざまに新しい試みが取り入れられていたのが素晴らしく、撮影現場の熱気をまざまざと伝えるメイキングビデオにも感動させられた。

 しかしながら、純粋に映像作品としてみた「巨神兵東京に現る」には、少々疑問を感じずにはいられなかった。わずか9分の上映時間という制約があるにしても、巨神兵襲来に至る状況をナレーションのみでむりやり詰め込むように説明してしまう手法は、およそ映画的とは言いかねる。しかも、そこで語られる虚無的なストーリーも無機質で突き放した口調も、ただ寒々しいばかりで何の感銘も与えてくれない。

 巨神兵の先輩にあたる怪獣たちは、そんな寒々しいものだったろうか? そんなことはない。怪獣は確かに恐ろしい破壊の権化であるが、同時に不可解なまでに人を引きつけて止まない、驚嘆すべき存在であったはずだ。したがって、怪獣を語るにふさわしい口調は「巨神兵東京に現る」のような青臭く気取った無関心などでは断じてない。恐怖にせよ戸惑いにせよ賛嘆にせよ、狂おしい熱を帯びていなければならないはずだ。

「奇っ怪紳士! 怪獣博士! 大伴昌司の大図解」展は、そうした怪獣への熱い想いを新たにさせてくれる好企画だった。大伴昌司はウルトラ・シリーズの製作に直接かかわった人物ではないため、怪獣ブームに便乗しただけのように語られることもある。だが、彼が創案した怪獣図解が、消費されていくやられ役ではなく長く愛され続けるスターとしての怪獣像を創りあげるのに、大きな貢献があったことは間違いない。今回展示されていた怪獣図解の肉筆原稿の数々には、どれも細かいアイデアや画家への指示などがびっしりと書き込まれていて、大伴の怪獣図解が安易にブームに乗じた商魂の産物ではなく、彼なりに怪獣を愛しその魅力を追究していったまなざしに根ざしたものであったことを、雄弁に証している。映画やドラマを作っていなくとも、大伴昌司はやはり日本怪獣文化の重要な担い手の一人であったのだ。

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2012/07/14

『コナン・ザ・バーバリアン』

 テアトル梅田で『コナン・ザ・バーバリアン』を見た。なんと、公開初日なのに20:55からのレイトショーしかないのである。アメリカ本国での評判がさんざんだったせいらしいが、それにしてもあのコナンが……と悲しくなってしまった。で、実際に見てみると、それも仕方ないのかもと思わせる出来の映画だったので、またまた悲しかった。

 主演のジェイソン・モモアについては、原作に馴染んでいる観客であれば、『コナン・ザ・グレート』のシュワルツェネッガーよりもコナンらしいと感じるのではないだろうか。シュワルツェネッガーは逞しすぎて力押し一辺倒というか、原作のコナンが持っている俊敏さをやや欠くところがあったが、モモアはまるで豹のようによく走り飛び回り、狡猾な雰囲気があるところがよかった。

 それはもちろん、撮る側のサポートがあればこそであって、アクション演出に関しては『コナン・ザ・グレート』とは比較にならない多彩な技闘が楽しめる。残虐度も大幅にアップしており、気の弱い観客なら目を背けるような描写が続出であった。ただ、CGに頼って派手にし過ぎ、なんだかマンガじみているので、生の迫力で押していた『――グレート』の方を好む方もあるかも知れない。

 困ってしまうのは、そもそもストーリーがつまらない上に脚本も演出も散漫であることだ。これは『――グレート』もそうだったけど、またもや親の仇討ちの話なのである。原作のコナンは、どこからともなく現れて、破壊と殺戮の嵐を巻き起こし、またいずこかへ去ってしまう――危険きわまりない風来坊なところが魅力なはずなのに、親の仇討ちなんて白けることこの上ないのである。

 それでも『コナン・ザ・グレート』には、ニーチェの言葉が引用される幕開けから、魔道士タルサ・ドゥームの紋章(これ!)の大写しにベイジル・ポールドゥリスによる勇壮なテーマ曲が鳴り響くエンディングまで、強大ななにかがずんずんと押し進んでいくような、全編を貫く勢いがあった。それはハッタリではないかと言われれば、実際そうなんだけど(笑)、なにか分からないがとにかく凄いものを見たというような気にさせるところが確かにあったのである。当時高校生だった私は完全に酔わされてしまい、「欠点だらけの映画じゃないか」と思いつつも二番館まで追っかけて『――グレート』を繰り返し見てしまった。だが、今回の『コナン・ザ・バーバリアン』にはそういう無闇な勢いが、もう悲しいぐらいに、ない。

『――グレート』ではふつうの子供に見えた少年コナンが、この映画では大人の戦士数名を平然となぶり殺してしまい、生首を村に持ち帰る。しかし、父はそんなコナンに満足せず、「しならない剣は折れる」「剣を鍛えるには炎と氷の両方が必要だ」と教育を始める。これが後の展開の伏線になるのだろうと思っていたら――なーんにもフォローがないですよ。親の仇討ちの話なのに!

 今回の悪役は、世界を支配する魔力のある仮面を復元しようと画策している男――なんだけど、ついでに火あぶりにされた妖術師の妻を復活させようともしていたりして、ちょっと女々しい。妻の能力を受け継いでいる娘を随えていて、彼女の方がとことん凶悪な感じでさわやかなキャラクターだった。親父は剣の達人、娘は砂から生まれるゾンビみたいな戦士を繰り出す術を使えて、コナンは苦戦する。なのに最後の決戦では、娘は妖術を使わず『エルム街の悪夢』のフレディーみたいな鉄の爪だけでコナンに立ち向かい、親父は仮面を復元していながら魔力を嫁さんの復活にしか使わず、どちらも当然のようにコナンにやられてしまう。ふつうは敵味方ともパワーアップして決戦させるでしょ!

 以上のような調子で、せっかく盛り上がり掛けても後が続かなくてがっかり、というのがこの映画では連発されるのである。もしこれが、コナンの映画ではなく、コナン・ブームに便乗して作られたB級映画だったりしたら、そこそこ楽しめたかもしれないのだが……。いやそれよりも、親の仇とか関係ないまったくの風来坊のコナンが、この女々しい悪役の地道な努力をすべてわやくちゃにしてしまい、哄笑しつつ立ち去るという映画にしてくれたら最高だったんだけど、そういう企画は無理ですかねえ。

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2012/07/08

『霧の夜の恐怖』と『山霧の深い晩』

 怪談専門誌『幽』第17号(メディアファクトリー)の山田誠二氏による連載「怪談映画語り」第7回を読んでいて、思わず身を乗り出した。1951年の大映映画『霧の夜の恐怖』が取り上げられていたからである。もっとも、この記事のメインは山田氏のご専門である大蔵怪談映画の一本『怪談異人幽霊』の紹介であって、『霧の夜の恐怖』については現代を舞台にしたホラー映画の先駆の一つとしてごく簡単に触れられているだけにすぎない。とはいえ、大手出版社の雑誌でこのような知る人ぞ知るマイナー作品を取り上げるのは『幽』ぐらいのものだろうな、と感心してしまったのである。

 この映画については、私も『日本幻想作家事典』の巻末付録「怪奇幻想映像小史」で言及している。だが、残念ながら紙幅の都合で、当時調べた諸々のうちいくらも触れることができず、少々悔しい思いが残ったのだった。せっかくの機会なので、ここでフォローしておくことにしようと思う。

 ご存じの通り、かつて日本のホラー映画のメインストリームは時代物の怪談であり、歌舞伎や講談といった伝統芸能から題材を得て、同じ話のバリエーションが延々と作り続けられてきた。特に戦前には、現代物のホラー映画は先にこのブログで取り上げた『都会の怪異七時〇三分』(1935)のような試みがごく散発的に現れたのみであった。現代物のホラー映画が一つの路線として定着したのは戦後になってからのことであって、その先陣を切ったのは『白髪鬼』(1949)、『鉄の爪』(1951)、そして『霧の夜の恐怖』、以上3本の大映映画である。

 終戦直後のGHQの統制下では、封建的という理由で娯楽時代劇映画の製作が制限されていた。そこで、時代劇を得意にしていた大映は、現代劇のスリラー路線に活路を見出そうとした。その中で、上記の3本のように超自然の領域に踏み出す作品も現れたのである。しかし、時代劇の復興に伴い現代劇スリラー路線が縮小されてしまい、この試みは後が続かなかった。現代劇のホラー映画が本格的に定着し始めるのは、この後新東宝・大蔵の怪談路線の登場によってであった。

 上記3本の大映現代ホラー映画のうち純粋なオリジナル作品といえるのは、南洋でゴリラに噛まれたために獣人化する特異体質となった男の悲劇を描いた『鉄の爪』のみである。『白髪鬼』は江戸川乱歩の同題ミステリ長篇を幽霊譚に仕立て直した(おそらく乱歩に無断で!)ものであり、『霧の夜の恐怖』は、北条秀司の脚本によるNHKのラジオドラマ「山霧の深い晩」の映画化であった。

『鉄の爪』はかつてVHSとレーザーディスクでソフト販売されており、『白髪鬼』はいまはなきホラーTVで放送されたことがあるので、これら2本についてはそれなりに知られている。だが、『霧の夜の恐怖』だけは、ソフト販売はおろかリバイバル上映もテレビ放映も、とにかくこの映画を見たという話をとんと聞かない。昭和20年代の大映スリラー路線の包括的な研究書である那智史郎『大映戦慄篇 昭和二十年代探偵スリラー映画』(2003,ワイズ出版)では、詳しい紹介もないまま「怖くないスリラー」の一言で片づけられているし、戦後の国産特撮・幻想映画のリストとしてはもっとも広範に網羅している『日本特撮・幻想映画全集』(2005,朝日ソノラマ)ではスチール写真を『白髪鬼』と取り違えて掲載されているし、戦前からの国産怪奇映画の流れを追った文献としては最高峰のものである泉速之『銀幕の百怪 本朝怪奇映画大概』(2000,青土社)のリストでも題名を『霧の中の戦慄』と誤記されているし(ただし著者泉氏は、誠実にもご自分のサイトで正誤表を公開されている)、まるで呪われているかのように不遇なのである。

 こうなると、公開当時の宣材や新聞、雑誌等の二次資料から間接的にいったいどういう映画であったか探っていくしかないのであるが、さいわいにも『キネマ旬報』が当時の映画紹介ページのデータを電子化してネットで公開してくれているので、作品評こそないが比較的詳しいあらすじを知ることができる。まずはこちらをごらんいただきたい(ついでながら付記すると、このデータベースで見る限り、山田誠二氏が「怪談映画語り」で『霧の夜の恐怖』と並ぶ現代ホラーの先駆として言及されている佐々木康監督の『魔の口紅』(1949)は、怪談ではなく犯罪ミステリのようだ。この映画は、今年の3月に神戸映画資料館で上映されている)。

 障害ある恋に悩む外科医と看護婦。交通事故で足を痛めたために将来に絶望したバレリーナとその恋人。二組のカップルのうち後者は心中を実行しバレリーナは命を落としてしまう。しかし、彼女の霊は看護婦の命を救う――題名に「恐怖」とあるからには何らかの恐怖演出もあったのだろうが、メロドラマ色が濃いジェントル・ゴースト・ストーリー的な作品だったようだ。なんとか現物を見てみたいものだが、果たしてフィルムが現存しているのだろうか……。

 ところで、実はこの映画の原作であるNHK製作のラジオドラマ『山霧の深い晩』(1949)はまったく趣が違い、ただひたすらに恐怖を追い求めた本格派の怪談劇であった。北条秀司による脚本は、『NHK放送劇選集』第3巻(1953,日本放送出版協会)もしくは『北条秀司ラジオ・ドラマ選集』(1952,宝文館)で読むことができるので、ここでは前者に拠って概要をご紹介しよう。

 電話で本社に第一報を伝える新聞記者の台詞で、ドラマは幕を開ける――箱根山中の温泉のホテルで、男と女が血まみれで倒れ、呻いているのが発見された。状況からは女の方が男を鋭利なナイフで刺し、その後自らの胸を一突きしていることが察せられ、無理心中も疑われる。女は足が悪く、白いハイヒールを履き松葉杖をついて歩いていたのが目撃されている――。

 二人ともまだ息はあったが危篤状態であり、女はもう助からないのではないかと思われた。そこで急遽男だけが病院に搬送された。医師がトイレへ用足しにいったわずかの間、新聞記者は女と部屋に二人きりになった。そのとき、ふっと女の意識が戻り、男の名を呼んだ。記者が、男は病院に搬送されていったことを告げて女を励ますと、女は「一人では死ねない」と呻き始める。

「駄目……孝夫さん……死ななくちゃいや。……一緒に死ななくちゃ……(中略)もし死ななかったら、……呪い殺してやるから、きっと、……呪い殺して……」

 すさまじい呪詛を吐いて、女は息絶える。

 記者が病院に到着すると、看護婦たちが搬入された男の妻の態度について愚痴をこぼしていた。水を飲ませてはだめだといくら説明しても聞き入れず、何度も水をくれと詰め所へ電話してくる。とうとう「これから自分で取りに行くから」と言い出した、と。どんな容貌の女性かと問うた記者は、看護婦の答えに青ざめる。足が悪いらしく、白いハイヒールに松葉杖だったというのだ。そのとき、廊下からコツ、コツ、と松葉杖の音が響いてくる。ついに扉がノックされ始めた次の瞬間、本物の妻が到着したことを告げる電話が掛かってきて怪音は霧散する。

 しかし、本物の妻の周りにも、怪しい気配がつきまとった。松葉杖の音、すすり泣く声……たまりかねた妻は夫を自宅に連れ帰ることを申し出る。医師は半信半疑ながら、妻がひどく憔悴しており、記者と看護婦たちの口添えもあったため申し出を承諾した。

 夫婦と記者を載せた自動車は、山霧の立ちこめる深夜に病院を出発する。しばらくは何事もなかったが、ふいに運転手が急ブレーキを踏む。松葉杖をついた女が、前を横切ったというのである。運転手は車を降りて周囲を確認するが、誰もいない。ふたたび車を走らせ始めた直後――。

運転手「あ、また見えた。ご覧なさい。松葉杖をついているでしょうが」
記者「駄目だ。誘導されちゃ駄目だ。早く停め給え」

 恐怖のあまり、妻は気を失ってしまう。ちょうど近くに茶店があったので、記者と運転手は彼女をそこへ運び込む。すると、夫が独り横たわっているはずの車が、動き出す音が聞こえてきた。慌てて飛び出した二人は、車に女が乗っているのを目撃する。車は崖から飛び出すと、ものすごい音を立てて谷底へ転落していった。記者は呆然とつぶやいた。

「……とうとう連れて行っちまった」

 いかがだろう。私の拙い要約でも、聴取者に音のみが伝えられるラジオというメディアの特性を、最大限効果的に使い切ることを狙った本格派怪談劇であることは、お解りいただけたのではないだろうか。どうしてこれが映画化に際して、メロドラマ風のジェントル・ゴースト・ストーリーに改変されてしまったのか? あるいは、もとの脚本・ストーリーでは映画としては尺が足りなかったせいかもしれないが、それにしてもこれほど怖いドラマを原作にしていながら、と思わずにいられない。

 このドラマは1949年8月18日の初放送時にたいへんな好評を得たようで、『NHK放送劇選集』の解説文によると、「この放送劇を聞いた聴取者は、怖ろしくて途中で何度もスイッチを切ったということである」という。せっかくなので、初放送時のキャストとスタッフも書き写しておく。

新聞記者 東野英治郎
病院長 三島雅夫
看護婦 望月美恵子
ホテルの支配人 藤原釜足
女 堀越節子

脚本 北条秀司
演出 山口 淳
音楽 服部 正

 この後、『山霧の深い晩』は何度か再放送・再製作されているらしく、1965年にはフランキー堺が主演する新版が製作されている。また、1953年にはテレビドラマ化されている。さらに、2008年には朗読劇として上演された。ラジオが生んだ、知る人ぞ知る名作怪談劇というべきだろう。

 良くも悪くも伝統が重んじられた映画界と違って、ラジオやテレビでは現代物の怪奇幻想ドラマが早くから盛んだった。初期のテレビドラマについては、私も『日本幻想作家事典』でごくわずかながら取り上げたが、ラジオドラマに関してはまったく手を出すことができなかった。

 今回参照した『NHK放送劇選集』第3巻でも、「山霧の深い晩」のほかに、母を懐かしむ浮浪児の幻想が都市伝説騒動を巻き起こす飯沢匡の「数寄屋橋の蜃気楼」や、戦前の台湾を舞台に夢見がちな日本人少年が古城のオランダ人幽霊の呼び声に惹かれていく菊田一夫の「ゼェランジャ城の幽霊」、古屏風に張り付けられた写真の女との奇妙な交情を描いた伊馬春部の「屏風の女」といった、幻想的なドラマ脚本がいくつか収録されている。これらはみな、放送当時に秀作と評価されたからこそ、選ばれたはずなのである。また、戦前には火野葦平の「怪談宋公館」がラジオドラマ化され、戦後にかけて繰り返し再演される定番の題材になっていたとも聞く。1950年代までのラジオの影響力は絶大なものがあり、ラジオの怪奇幻想劇の実態を解明していくことは、今後の日本怪奇幻想文学史研究の重大な課題の一つとなるのではないだろうか。

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2010/07/31

2010年7月の読了書から

 激安AndroidタブレットEken M001を買った第一の理由は、国会図書館近代デジタルライブラリーの電子書籍を快適に読めるのではないかという期待であった。近代デジタルライブラリーでは、蔵書をスキャンした画像データをJPEGもしくはPDFとして公開しているので、レイアウトは実物の本のまま変更できない。したがって画面の小さな端末では、まるで紙の本をルーペで読んでいるようでつらい。かといって、ノートPCやデスクトップPCで読むのも窮屈だ。本に近い感覚で読め、取り回しできる端末が欲しかったのである。

ここでポイントとなるのは、1行の表示領域がどれだけ確保できるかである。1行の端から端までが画面に収まっていないと、読み進むのにかなりストレスを感じる。つまり結局のところ、文庫をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ文庫サイズの画面が要るし、新書をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ新書サイズの画面が要るということだ。若い人たちなら、解像度が高ければ実寸より少々小さい画面になっても読めるのだろうが、老眼が始まっている私のような世代には実寸準拠でないとつらい。

 そういう意味ではIPadやKindle DXのような10インチ級の画面が理想だが、端末の寸法や重量がそれなりに大きくなってきて、取り回しや携帯性にやや難が出てくる。ぎりぎり許容できるサイズを検討した結果、7~8インチ程度ではないかと考えた。Eken M001の7インチ画面の長辺は約15cmと、おおよそ四六判の1行の印字長と同程度だから、これならまあ何とかなるはずだと。

 ところが、実際にはそう簡単にはいかなかった。近代デジタルライブラリーでダウンロードできるPDFは、JPEG2000形式の画像データから作られている。この形式のPDFを読めるビューアソフトが、Androidにはまだ無かったのである。仕方がないので、PCのブラウザに表示されるJPEG画像データを1枚ずつダウンロードした。この画像がまた、本の周りに大きな余白が入っているという代物なので、PCの画像編集ソフトで印字範囲のみになるようにトリミング。これをSDメモリーカードでM001に移して、画像閲覧ソフトで読むという方法を採った。画像のトリミングはVIXというWindowsの画像ビューアソフト、Androidでの閲覧はDroid Comic Viewerを用いた。結果はこのとおり。

M001

 準備に恐ろしくめんどうな作業が必要であり、M001のタッチパネルの精度が今ひとつで誤動作にいらつかされることもあるものの、PCの画面で見るよりはずっと紙の本に近い感覚の読書環境ができあがった。そこで読んだのが下記の3冊。

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『豪傑児雷也』(大阪:中川玉成堂、明42.3)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『勇婦綱手』(大阪:中川玉成堂、明42.10)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『大蛇丸』(大阪:中川玉成堂、明43.3)

 前々月に読んだ『快傑自来也』が何だか期待はずれだったせいもあって、正調の児雷也が読みたくなったのである。この三部作は合巻の『児雷也豪傑譚』系で、書名の通り蛞蝓の綱手姫と大蛇丸が加わって三すくみの趣向となる。児雷也は盗賊ではあるが、その目的はお家再興のための軍資金集めにあり、弱きを助け強きを挫く義侠心を持つ。ストレートな悪役である大蛇丸の登場により児雷也はますますヒーロー化していき、最後には罪も許されて宿願を達成する。ヒロインの綱手姫は蛞蝓の術を使うのみならず、数人力の怪力を奮う。やたらと強いのに運命の人である児雷也にはデレデレというギャップが可愛らしい。まるで最近のマンガやアニメのヒロインみたいで、児雷也物も現代向けにアレンジすればけっこう受けるんじゃないだろうかと思った。

 この本に限らず、日本古来の怪談や伝奇物の概要を知るには、話し言葉で書かれており読みやすい講談速記本がもっとも手軽である。とはいえ、実物の古書はそれなりに高価だし状態が良くないものが多い。無料で電子書籍版が読める近代デジタルライブラリーは、実にありがたい。

 以下は紙の本。

佐藤至子『妖術使いの物語』(国書刊行会)[Amazon]
 日本の古典文芸・芸能に現れる妖術使いたちの姿を一般向けに概説したもの。「隠行の術」「飛行の術」「分身と反魂の術」というように見せ場としている術の種類によって系統を分けて紹介していて、たとえば「蝦蟇の術」の章を読めば、私が先月読んだ『快傑自来也』が天草四郎や天竺徳兵衛まで絡めた話になっていたのは、切支丹の妖術使いのイメージから蝦蟇の妖術使いが生ずる系譜を遡り統合する試みであったことが判る。平易な文章で書かれていて図版も多く、楽しくためになる本である。
『日本幻想作家事典』の伝奇時代劇映画/ドラマの項目は最終的にはSF系ヒーローへの推移に重きを置いた書き方にしたが、当初は主題別に系譜を追うことも検討していた。だが、かんじんの映画そのものの方が、こうした古典的な妖術師たちの系譜はほぼ戦前の映画で途絶えていてフィルムもほとんど残っていないため、断念したのである。同じ古典でも怪談物の主題は戦後までかなり受け継がれているのに、どうしてこうも差が生じたのだろうか。どうにか戦後も生き残ったといえるのは里見八犬伝と児雷也だけで、あとは全滅である。もちろんSFヒーローの台頭が一因となっているのだろうが、それにしてももったいないと思う。

大島清昭『Jホラーの幽霊研究』(秋山書店)[Amazon]
 Jホラー映画ブームから現代日本人の霊魂観を読み取ろうとしたもの。霊の実在を信じる一方で宗教による救済を持てないことが、Jホラーが得意とする止めなく増殖していく荒涼とした恐怖を生んでいるという指摘が興味深い。著者はそれを現代日本人の精神的な危機の現れと捉えている。とはいえ、霊魂の否定がただちに救いになるわけでもないし、いまさら宗教が救いになってくれるのかというと……。考えるほどに、ホラーとはまた違った寒々とした怖さに襲われる。

ステファヌ・オードギー『モンスターの歴史』(創元社)[Amazon]
 ヨーロッパを中心とした怪物に関する文化史──なのだが、空想上の怪物だけではなくて身体的な異常や精神的な病をもつ人々をも含む「異形の物」の文化史というべき本であった。広範な話題をうまくコンパクトにまとめているが、参考文献からの抜粋が巻末にまとめて掲載されている構成がちょっと読みづらい。

中島春雄『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)[Amazon]
 ゴジラを始めラドン、バラン、バラゴンなど、東宝特撮映画で多くの怪獣を演じた俳優の自叙伝。着ぐるみ方式の怪獣特撮は、当然ながら演技者の巧拙によってリアリティに大きな差が出てしまう。全盛期の東宝に較べて以後の着ぐるみ怪獣特撮がどこも今ひとつ精彩を欠くのは、中島春雄に匹敵する着ぐるみ俳優を育てられなかったからでもある。本書はどうやら聞き書きをまとめたものらしく、たいへんくだけた文体で読みやすい。特撮の現場ばかりでなく、撮影所所属の大部屋俳優の日常がいきいきと語られており、日本映画が元気だった時代の貴重な証言となっている。
 ただし、いくらか誇張も混じっているようにも思う。たとえば、怪獣同士の殺陣について、著者は円谷英二がすべて自分に一任したという。おそらく実際にそういうカットもあったのだろうが、操演の絡む尾を使ったアクションや事前の準備が必要なミニチュア絡みのカットなどは、着ぐるみ演技者の一存で仕切れるはずがない。しかしまあ、これぐらいは自伝や聞き書きには付きもの危険というべきだから、それによってこの本の価値が減じるとまではいえまい。

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2010/03/31

2010年3月の読了書から

マーガニータ・ラスキ『ヴィクトリア朝の寝椅子』(新人物往来社)[Amazon]
 これは稲生平太郎=横山茂雄が『幻想文学』第10号に掲載の「不思議な物語」連載第1回で紹介していたもので、実に25年ぶりに彼自身の手でようやく邦訳された。
 まずは版元の内容紹介をそのまま引用してみる。

 「幸せな生活に満足していたメラニー。ある日、骨董屋で買ったヴィクトリア時代の寝椅子でうたた寝し目覚めると、1800年代にタイムスリップし寝椅子の元の持ち主であるミリーという女性になってしまっていた……」
 極端な言い方をすれば、この小説ではそれ以外何も起きはしない。ふつうのタイムスリップ物SFなら、ここが発端となってあれこれ冒険が──となるところだが、この小説にはそういう派手な展開は一切ない。主人公は何が起きたかを知り、ただ戸惑うばかりなのである。では、退屈な話なのかというと、まったくの正反対。これほど手に汗握るスリルと恐怖を味わわせる小説は、ちょっとない。
 考えてもみてほしい。もし、こんなことがほんとうに自分の身に起きたら、どれほど恐ろしいかを。たいがいのタイムスリップ物がさほど恐ろしくないのは、本来異常きわまりない事態なのを、よくある趣向にすぎないという認識で書き流しているからに過ぎないのだ。一切の妥協無しに本気で向き合えば、どれほど恐ろしいか? その答えがここにある。本ブログを読まれているような方ならば、決して読み逃すべきではない、超自然小説の傑作である。

辻原登『抱擁』(新潮社)[Amazon]
 二・二六事件の衝撃がまだ生々しいころの東京を舞台に、旧加賀藩主前田侯爵の邸宅に小間使いとして奉公することになった若い女性が、まだ5歳の令嬢に何ものかが取り憑いているらしいことに気づき……という心霊小説。ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」へのオマージュとして書かれたそうだが、「ねじの回転」でこの世ならぬ悪の象徴であった園丁が死霊ではなく生身の人間で現れ、しかも現世のつまらなさを体現するとことん俗っぽいキャラに改変されていたのにはびっくり。幽霊は前任の小間使いのみなのである。主人公がある計略を用いてこの霊が邪悪なものかどうか見極めようとするクライマックスはそれなりに緊張感ある見せ場になっていたものの、全体に「どこが『ねじの回転』?」という異和感は拭えなかった。
 ご存知のとおり「ねじの回転」は、幽霊について詳述せず読者自身に想像させる朦朧法を用いているために、読者によって見方が大きくぶれることがある。どうやら、この本の著者と私とでは、見ているものがぜんぜん違うらしい。

京極夏彦『冥談』(メディアファクトリー)[Amazon]
 メディアファクトリー編集部からご恵贈いただきました。ありがとうございました。
 怪談専門誌『幽』に連載されていた短篇シリーズに、書き下ろし2篇を追加した怪談集。収録作は下記の通り。

(1)庭のある家
(2)冬
(3)風の橋
(4)遠野物語より
(5)柿
(6)空き地のおんな
(7)予感
(8)先輩の話

 著者は「怪談は難しくて書けない」と常々公言しているようだけど、この本が怪談集ではないなんていうと、世の中の怪談のほとんどは怪談ではなくなってしまいそうな気がする。椿→打ち首→潰れる頭という惨死のイメージの連関により不条理な怪異に斥け難い説得力を持たせている(1)や、幽霊そのものはほとんど語らずに幽霊を見るに至った人間の心の揺れ動きを執拗に追い続けることにより朦朧法の怪談でありながら曖昧さを感じさせない(6)などは、むしろ怪談のお手本というべきだろう。優れた怪談を支えるのはオカルト的な理屈付けよりも、心理的な整合性なのである。


吉村正和『心霊の文化史 スピリチュアルな英国近代』(河出書房新社)[Amazon]
 19世紀後半英国の心霊主義と、当時の科学・宗教・思想・芸術との関わりを概説したもの。現代人の目で見ると心霊主義は宗教にすぎないのだが、当時の西欧社会では革新的な科学思想と見なされ大きな影響を及ぼした。オカルト史での位置や心理学との繋がりはともかく、社会主義的改革思想や田園都市建設運動との関係についてまではよく知らなかったので、興味深く読んだ。
 専門書ではなく一般向けの新書であり解りやすく書かれているが、心霊主義の影響力を見るという主旨なので心霊主義そのものについての記述はかなりあっさりしている。心霊主義に不案内な方は、先に心霊主義についての概説書を何か読んでおいた方が、より理解が深まるだろう。

ナサニエル・ホーソン『ブライズデイル・ロマンス 幸福の谷の物語』(八潮出版社)[Amazon]
『心霊の文化史』を読んで、5年前に購入してから未読のまま放置していたこの本のことを思い出した。ホーソン自身が参加したユートピア的共同体「ブルック・ファーム」での体験を元にした長篇で、心霊主義やメスメリズムも語られているというのである。しかし、実際に読んでみるといろいろと物足りなかった。
 この小説は、主人公である詩人カバデイルの回想の形で、ボストン郊外ブライズデイルに作られた共同体での出来事が語られる。カバデイルはブライズデイルの中でも、犯罪者の厚生施設を兼ねた共同体を作ることを夢見ている博愛主義者ホリングズワスと、裕福で蠱惑的な女傑ゼノビアという2人のメンバーと特に親しくしていた。ところが、ブライズデルに霊媒の少女プリシラが迷い込み、さらにプリシラを追ってゼノビアの前夫で催眠術を操るウェスタベルトが現れる。物語は、この5名の入り組んだ確執を描くことにほぼ終始している。ブライズデイル共同体がどのようなものなのかはくわしく語られないし、心霊主義やメスメリズムとの関連についても掘り下げられることはないので、そういう興味を持って読んでも失望するばかりであろう。
 そもそも主人公は共同体の主旨に懐疑的な様子で、ろくに活動に参加もしない。さらに彼は、ホリングズワスのことも目的のためには他を省みない偽善的なエゴイストと見なしていて、ゼノビアとプリシラがホリングズワスに惹かれていくのを妨害しようと躍起になる。まるきり冷笑的な傍観者で、なんとも共感しがたい人物なのである。本書はホーソンの長篇の中でも、特に邦訳に恵まれていないらしいのだが、これでは仕方ないかも。

『SFマガジン』2010年5月号(早川書房)[Amazon]
 特集が「クトゥルー新世紀」ということで、以下のような内容だった。

(1) チャイナ・ミエヴィル「細部に宿るもの」
(2) ベンジャミン・アダムズ「リッキー・ペレスの最後の誘惑」
(3) F・グウィンプレイン・マッキンタイア「イグザム修道院の冒険」
(4) エリザベス・ベア「ショゴス開花」
(5) 竹岡啓「クトゥルー新世紀概説」
(6) 中村融「特集解説」

 私も二十歳代のころまではクトゥルー神話に熱中したものだが、最近はほとんど追い切れていない。2001年以降の海外の動向を解説してくれた(5)は大いに役立ちそう。小説では、第二次大戦間近の緊張した世相を背景にショゴスの生態研究と人種問題を絡めた(4)が群を抜いておもしろかった。シャーロック・ホームズ物に仕立てた(3)は、ありきたりでむしろ感覚が古いのではないかなあ。

STUDIO28編・著『モンスターメイカーズ』(洋泉社)[Amazon]
 ストップモーションアニメを中心に書かれたアメリカ怪獣特撮史。2000年に出たものを2005年に増補改訂したもので、旧版は新刊時に読んでいたのだが、増補版が出ていることに最近まで気づかなかった。この本は、ストップモーションアニメからCGに至る怪獣特撮の流れに限れば、日本語で読めるものの中では最高の文献資料である。ただ、その他の怪獣特撮の手法に関しては、ずいぶん簡単に済ませてしまっているのが惜しい。私にとってはハリボテも着ぐるみも実物の生きものの大写しも、怪獣はみな怪獣であり、等しく愛おしい。いつの日か、真に総合的に怪獣特撮史をまとめた本が現れてくれることを、願わずにはおられない。

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