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2014/12/07

『セメント怪談稼業』と「第三の実話」

 怪談専門誌『幽』編集部より、松村進吉『セメント怪談稼業』(角川書店)[Amazon][kindle]を、ご恵贈いただきました。ありがとうございました。

 本書は、実話中心の怪談作家として活躍している著者の日常と、彼が収集した怪談が妖しく交錯する様を描いた全9篇を収録している。うち4篇は『幽』に掲載されたものだが、5篇は新たな書き下ろしである。皆さんご存知のとおり、私はどちらかというとフィクションとしての怪談に強い関心があって、実話の方には疎いのだけど、この本にはいろいろと考えされられるところが多かった。

 本書の著者である松村進吉は、幽霊を恐れる「ヘタレ怪談作家」を自称しているけれど、心底臆病で怠け者の私から見ると、ずいぶんたくましい。怪談作家なんだから当たり前という意見もあろうが、昼は肉体を酷使する建設現場で働き、夜も精力的に怪談を集め売り物になる原稿に仕上げていくという生活は、相当にきついはずである。しかも本書では、怪談よりもそれを提供してくれている人間の方が危険そうなケースも紹介されていて、よくやるよなあと感じ入ってしまった。

 とはいえ、それはただ強面なたくましさでは決してなくて、度外れた誠実さこそがその源泉であるように見える。たとえば、愛猫家としての心情を綴った「猫どもの件」。捨て猫を見るに見かねて引き取り続けた結果が、何と10匹。それだけで充分に立派だと思うのだが、それでもなお著者は得心できず、「それ以外の猫を見捨てている俺は、偽善者ではないのか?」と懊悩するのである。何もそこまで自分を追いつめなくても……。「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」なんて懐かしいフレーズを思い出すではないか。ヘタレどころか、まるでハードボイルドだ。

 そうした著者のハードボイルドな資質が怪談作家――というより、一個の表現者としてとことん発揮されてしまったというべきなのが、本書に書き下ろされた「第三の実話の件」である。ここで彼は、平山夢明が監修する怪談本シリーズに参加することになった際に、平山から「怪談というモノに対する新たな概念を作れ」などと恐ろしい難題を突きつけられ、それに真っ向勝負を挑んだ顛末を赤裸々に告白している。

 著者によれば、現在流通している実話の怪談本には、2つの種類があるという。1つは怪談の本流である、幽霊などの超自然系の実話。もう1つは、本流からは外れており怪談に含むかどうか議論もあるが、サイコ系の猟奇犯罪を扱った実話。これらに続く第三の怪談実話とは、いったい何か? 悩みに悩んだ著者は、恐怖の原因が何かではなく恐怖そのものを見つめることで、これまで取材過程で「使えない」とボツにしてきた体験談群に可能性を見出す。心霊現象ではなく病や薬物から体験者の心に生じた妄想や幻覚の怖さを、そのまま提示しようというのである。「幽霊の話が読みたかったのに」と読者に反発されるのではないかと危惧しつつも、著者はこれこそが怪談実話の新たな可能性だと確信し、あえて世に問うた。そして――危惧したとおりに、読者たちからは「幽霊の話が読みたかったのに」との酷評を浴びた……。

 前述したように私は実話系怪談の動向には疎いため、こんな騒ぎが起きていたとはまったく知らなかった。くだんの怪談本の書名は伏せられていたのだけど、文中の情報から2年前に刊行された黒木あるじとの共著『FKBふたり怪談』(竹書房文庫)[Amazon]だろうと察せられる。ネット上での評判を見てみると、確かにネット書店でのユーザーレビューは否定的なものばかりのようだし、読者書評サイトの感想もほとんどは不満か戸惑いという反応のようだ。やけどすると解っていて火中の栗を拾ってみせた著者の表現者としての覚悟は、凄絶というほかない。

 しかし、こうした著者の危惧と読者の不評の両方を読んで、私はちょっと考え込んでしまった。というのは、「第三の実話の件」の中でこの新たな怪談実話のサンプルとして披露されていた話が、もしも創作の怪談集に入っていたのなら、特に問題視されないようなものだと思われたからだ。実話と創作の怪談の間には、ほんとうにあった話と作り事の話というだけに止まらない、ジャンル意識の違いがあるのだろうか?

 ジャンルとは要するに特定の形式・様式なのであるが、近代の娯楽小説では(A)純粋に作中で扱う事物にこだわるものと、(B)そこから生じる感興にこだわるものに大別できるように思う。(A)の例として挙げられるのは、時代小説やウェスタンである。前者は中世から近世の日本、後者は開拓時代のアメリカ西部という時代と地理を描かなければ、内容がどうあろうとそのジャンルに属しているとは認められない。(B)の例として挙げられるのは、SFやミステリ、ホラーである。かつてはセンス・オブ・ワンダーという言葉がよく用いられたものだが、SFに求められるのは科学的な思考から生まれる驚異の感覚であって、宇宙船や光線銃などの小道具だとか未来や宇宙といった舞台設定ではない。だから、魔法や幽霊などの超常現象を扱ったSFも少なからず存在する。ミステリも同様で、論理的な謎解きの興味が満たされれば、幽霊でも宇宙人でも何でも出てきて構わない。

 そして、ホラーに求められるのは超自然現象に遭遇したときに感じる種類の恐怖、すなわち超自然的恐怖であって、超自然現象そのものではない。ホラーから怪談ないしはゴースト・ストーリーへと範囲を絞った場合には、超自然現象を求める傾向がずっと強くなるが、それでも非超自然の狂気や幻覚を完全に排除してはいない。たとえば、レ・ファニュの代表作の1つである「緑茶」は、緑茶の飲み過ぎのせいで自分につきまとう猿の幻覚を見る話でしかないのに、怪談小説の古典的傑作として扱われている。「第三の実話の件」でサンプルとして掲載されていたのは、勤め先でリストラされた中年男性が、デジカメの連写機能で周囲の人々を撮影した画像に、彼らが人間でない何者かである証拠が写っているという妄想に取り憑かれていく物語である。超自然現象はまったくないのだが、この世のものではない何かを見てしまう超自然的な恐怖はよく描かれていて、いうなれば「緑茶」タイプの佳作だったのだ。

 こういう作品が嫌われたということは、同じ怪談でも実話系の読者は、創作系の読者と較べると超自然現象そのものに強くこだわるということだろうか? 騒動の発端となった『FKBふたり怪談』はどうなのか気になってしまい、取り寄せて読んでみた。もとよりボーダーラインの作品群なので意見は分かれようが、この本に松村進吉が書いている「第三の実話」12篇のうち少なくとも5篇は、創作の怪談集なら問題なく通用するのではないかと私は感じた。

 地底人の侵略に気づいてしまった女性に日記を託されてしまう「日記」と、狐憑きの女性と結婚した男性の回想談である「油揚」、霊感を持つという少女が霊能者ではなく使い魔になりたがる「化身」の3篇は、怪異を直接体験している者が何を見ていたか断言できる証拠が作中にはないため、合理的な解釈も超自然的な解釈も可能である。特に「日記」は、落ち着かない怖さが実にいやな感じを出していた。抗不安剤依存が圧倒的スケールの幻覚を呼ぶ「形而」は、数学の授業で受けた幾何の説明から何となく幾何学図形を恐れるようになっていくという前振りが非常にうまく効いていて、これまた「緑茶」タイプの良作である。「爪音」もシンナー中毒による幻覚の話だが、二人の人間が幻覚を共有してしまっているようにも感じられる一瞬があって、そこがたまらなく怖い。おそらく、このブログを継続して読んでくださっているような奇特な方なら、「日記」「形而」「爪音」の3篇は、怪異の真相が超自然現象であるか否かとは関わりなく、優れた怪談として楽しめることだろう。

 残り7篇は、明確に妄想もしくは幻覚と断じられているのを度外視しても、怪談と呼ぶには日常からの飛躍の程度がやや足りないように、私には感じられた。もっと砕いて言えば、充分に怪しくはないと感じられたのだ。とはいえ、怪談かどうかなんて気にせず単に「怖い話」と割り切って読めば、どれも楽しめる仕上がりではある。また、半数ぐらいはいくぶんかニュアンスを変えるだけで、超自然の怪談に改変できそうにも思われた。でも、それは「実話」と謳っている以上は、決して越えてはならない一線なのだろう。

 これら12篇に対するネット上の読者の拒否反応は、私が目にした限りでは「怪談でないものが多い」あるいは「怪談でないものが混じっている」とかといった部分的な否定ではなく、すべてを「怪談ではない」と否定しているように見える。明確に幻覚・妄想として描かれている9篇だけではなく、どちらとも断言できない3篇までもが否定されているのだから、創作怪談の基準からするとずいぶんきびしいといえよう。やはり同じ怪談といっても実話本の読者は、創作怪談の読者よりも超自然現象そのものに強くこだわる傾向が間違いなくあるようだ。そんなに実話の読者に嫌われるのなら、いっそ完全に小説に仕立ててしまえば……なんて身も蓋もないことを言ってはいけませんね(笑)。著者が創作の怪談でも優れた作品を発表しているだけに、創作派読者の私はつい、そんな余計なことまで考えてしまう。

 はたして松村進吉が送り出した「第三の実話」は、当初の目論みどおり、怪談実話の革新となっていくのだろうか? 怪談実話に疎い私には、推測するのも難しい。というよりも、その資格がないだろう。ただ、結局問われるのは、怪談実話という文芸ジャンルの核がいったいどこにあるのかと、型破りであっても「第三の実話」がその核を突いていっているのか、この2つなのではないかとは思う。今、読者と作者の双方に、そういう問い掛けが発せられている――そんな気がした。

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