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2012/11/19

『呪われた者たち』本邦初公開

 10月16日、WOWOWで『呪われた者たち』が放送された。原題は『The Damned』、アメリカ版タイトルは『These are Damned』。イギリスのハマー・プロダクションが、硬骨の反体制派映像作家として名高いジョゼフ・ロージーの監督により1961年に製作し63年に公開したSF映画である。日本では劇場未公開のままテレビ放映もソフト販売もなく、文献のみにより隠れた名作として知られていたものが、限定的な形ではあるがついに初公開されたことになる。

 私は輸入DVDでこの映画を一足先に見ていたのだが、今回の放送も父に録画してもらって(あいにく私は視聴契約していないので……)、立て続けに2度見てしまった。そういう取り憑くような力を持つタイプの映画なのである。一言で表現するならば、ジャンル越境的な異形の作ということになるのだろう。冷戦を背景に、英国政府が少年少女を被験者にした秘密実験を行っているという物語なのだが、そうした要約からはおよそ想像が付かないような奇妙な語り口で撮られている。しかも、その異形ぶりが奇を衒っているとか壊れているとかいうのではなくて、主題とがっちり組み合って機能しているところに、舌を巻かされるのである。

 それでこれからその魅力を私なりに語ってみようと思うのだが、どうしてもプロットの核心に触れる必要があって、いわゆるネタバレになってしまう。もちろん、それぐらいでつまらなくなってしまうほど脆弱な映画ではないものの、できるだけ予備知識が少ない状態で見た方が、より衝撃が増すのも間違いない。未見の方はできればここで読むのを止めて、11月22日に予定されているWOWOWでの再放送をご覧いただきたい。また、リージョン1かつ英語字幕しかない輸入DVDではあるが『The Icons of Suspense Collection:Hammer Films』というBOXセットでも見ることができる。このブログを読まれているような方であれば、がっかりするようなことはまずないはずなので、ぜひご覧いただきたい。

 映画の舞台はイングランド南岸の保養地ウェイマス。保険会社を退職し、自前のヨットできままな観光に来ていたアメリカ人中年男性サイモン・ウェルズ(マクドナルド・ケリー)は、街角で魅力的な若い女性ジョーン(シャーリー・アン・フィールド)と出会う。だが、これはジョーンの兄で不良青年団のリーダーであるキング(オリバー・リード)の仕組んだ美人局で、サイモンはキングたちにこっぴどく殴られた上に財布を奪われてしまう。負傷したサイモンはカフェに運び込まれ、たまたま居合わせた政府の関係者バーナード(アレクサンダー・ノックス)と女性彫刻家フレヤ(ヴィヴェカ・リンドフォース)たちに手当てを受ける。

 黒革のジャケットに身を包んだキングの配下たちの暴れる場面には、「Black Leather,Black Leather,Kill Kill Kill!」と物騒な歌詞だがやけに陽気な曲が付されている。劇伴音楽として流されるだけでなく、彼らが口ずさんだり口笛で奏したりまでするものだから、耳について離れなくなってしまう。ハマー・プロの怪奇/SF映画ではおなじみの恐怖音楽の巨匠ジェイムズ・バーナードが作曲しているのだが、こんなポップな曲も書けたのかと、いまさらながらその多才さに驚かされる。

 キングはジョーンに対して異常なまでに執着しており、ジョーンが団のメンバーと親しくなることすら許そうとしない。ジョーンはそんなキングの拘束を疎ましく感じており、自由に生きているサイモンに惹かれていく。サイモンも、ひどい目に遭わされたにもかかわらずジョーンに惹かれ、ヨットに飛び乗ってきた彼女を連れてキングから逃れようとする。映画の序盤はこうした奇妙な三角関係が焦点になっており、SF映画というよりも自暴自棄で無軌道な若者たちを描く風俗映画のようである。

 わずかに、カフェでのバーナードとフレヤの対話の中で、バーナードがウェイマス近郊の軍の施設で機密計画に従事していることがちらりと触れられ、上映時間25分過ぎあたりでようやく、施設内の様子が描写される。そこでは9人の少年少女が何らかの事態に備えて英才教育を受けているようなのだが、教育はすべてテレビモニター越しに行われており、大人たちはなぜか子供たちと直には接しないのだった。

 町外れの海岸に逃げ延びたサイモンとジョーンは、人間や動物の焼け焦げた焼死体にも似た奇怪な彫刻が立ち並ぶフレヤのアトリエに忍び込み、愛を交わす。しかし、そこにもキングたちが迫り、追い詰められた二人は軍の施設を囲っているフェンスを乗り越えてしまう。二人と後を追ってきたキングは相次いで崖から海に落ち、施設内の少年少女に助けられる。ここまでで約40分。ほぼ中盤になって、やっとSF映画らしくなり始める。

 子供たちに助けられたサイモンらは、彼らの肌に触れて驚愕する。まるで死人のように冷たいのである。しかも3人は正体不明の悪寒に悩まされ、どんどん気分が悪くなっていく。それもそのはず。子供たちは全員、放射線漏れ事故の犠牲となった母親から生まれ致死量の放射線を発する特異体質となった、いわば人間ゴジラだったのだ。バーナードたちは核戦争後にも大英帝国を存続させるために、放射能の中でも生きられる彼らを施設の地下に閉じ込め、跡継ぎとして育成していたのである。サイモンたちは、彼らを追って黒い防護服に身を包み地下へ降りてきた軍人たちを辛くも打ち倒し、子供たちを伴って地上に逃れ出る。だが、その先に待ち受けているのは、おそらくSF映画史上もっともおぞましいクライマックスである。

 初めて浴びる陽の光や広大な外界に戸惑いながらも、感動に震える子供たち。しかし、バーナードたちが彼らを見逃すはずもない。黒い防護服の男たちがわらわらと忍び寄り、泣き叫び抵抗する子供たちを次々と捕まえていく。サイモンとジョーンも捕らえられるが、バーナードは彼らにヨットに戻るように告げるのみで放免する――子供たちの放射線を浴びたせいで、二人ともまもなく死んでしまうはずだから……。

 キングは彼を慕う少年を連れて自動車で逃れようとし、軍用ヘリが後を追う。執拗な追跡とどんどん悪化していく体調に観念したキングは、少年を降ろすと独り車に乗ったまま橋から海へ突っ込んでいく。たまたま子供たちの脱出地点に居合わせたフレヤは一部始終を目撃してしまい、バーナードを激しく非難する。フレヤを愛しているバーナードは、彼女を救おうとして計画に参加することを勧めるが、フレヤは承諾しない。やむなくバーナードは、自らの手で彼女を射殺してしまう。

 サイモンとジョーンの乗ったヨットが海を走る。その後にぴたりと貼りついて監視している軍用ヘリ。サイモンはジョーンにすべてを忘れて一からやり直そうと声を掛けるが、ジョーンは衰弱し朦朧としつつも戻って子供たちを救うことを主張する。承知したサイモンは、船を反転させる。ヘリに追跡されながら走り続けるヨットの俯瞰ショットで、映画は幕を閉じる。

 罠に掛け痛めつけた男に平気ですり寄る女と、騙され痛めつけられたのに懲りずに女を受け入れる男。衝動に身を任せて生きていく彼らのような愚か者たち以外のいったい誰が、自らの命を捨ててまで、近づく者を死に追いやる毒を放つ子供たちを助けようなどとするだろうか? そして、そんな愚かさの他にはもはや、われわれが縋れるものは残っていないのではないか?

 恐ろしくも悲しい結末によって、この映画の一見SFらしからぬ前半部が、周到な伏線であったことがはっきりする。キング一党の闇雲な暴力と、それをアリのように踏みつぶしてしまう国家による暴力。キングの拘束から逃れようとするジョーンのあがきと、軍の秘密施設から脱出しようとする子供たちの叫び。フレヤの奇怪な彫刻と、迫り来る核戦争の惨禍のイメージ――映画を構成するすべての要素が、狂気に支配された冷戦時代を告発する主題を強調するために、周到に配置されていたのである。

 この独特の味わいは映画独自のものなのか、それともある程度はH・L・ロレンスによる原作小説『The Children of Light』に由来するものなのだろうか? 原作を読んで確かめてみたいと思っているのだが、この映画のカルト的人気のせいで古書相場があまりに高く、手を出せないでいる。ともあれ、悪役も含めてすべての登場人物を哀れむべき人間として描くヒューマニズムや、動的なカメラワークが生むダイナミックなスケール感等、他のハマー映画とは明らかに一線を画す独自性はジョゼフ・ロージーの功績に間違いない。

 いや、ハマー・プロを貶めるような言い方は慎むべきだろう。この映画が、『原子人間』(1955)に始まり『恐怖の雪男』(1957)等を経て『火星人地球大襲撃』(1967)に至る、リアリスティックな雰囲気とシニカルな視点が特徴的なハマー・プロ産SF映画の流れがあればこそ生まれたことも、また事実なのだから。

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