『父親たちの星条旗』
TOHOシネマズなんばで、クリント・イーストウッドが監督した戦争映画『父親たちの星条旗』を見た。タイトルの「星条旗」とは、太平洋戦争でも屈指の激戦である硫黄島戦(戦いのあらましについてはこちらを参照)の勝利の象徴として有名なこの写真の旗のことである。
実はこの写真は、最初に立てた小さな旗を海兵隊のある将校が私物として持ち去ったために、2回目により大きな旗を立て直したのを撮影したものだった。撮影後約1ヶ月も硫黄島での戦闘は続いていて、写真に写っていた兵士の半数は戦死、生き残った3人は戦時国債をかき集めるための広告塔に利用するために本国へ帰されたという、史実に基づいた映画だ。
近代戦の本質は物量にあり、どれだけの物量をいかに効率的に投入できるかで勝敗は決まる。太平洋戦争も終盤のこの時期になると、日米両軍の戦力差はもはや圧倒的であった。装備も貧弱で航空機や艦船の支援がろくになかった日本軍の硫黄島守備隊に対し、当時世界最高水準の充実した装備と支援体制を誇っていたアメリカ海兵隊上陸部隊の勝利は、あらかじめ約束されていたようなものだったのだ。しかし、物量を構成する一単位でしかない兵隊たち一人一人の命は、そこでは消耗品でしかない。作戦決行前に、事前の空爆や艦砲射撃が10日間の予定だったのが3日間に圧縮されたため、上陸部隊の死傷者が何倍にも膨れあがるだろうと米軍の上層部がやりとりする場面がある。物量の投入量を変数とし、数学の問題のように死傷者の数まで予測できてしまうのである。兵士を満載し、硫黄島に向けて出撃する輸送船の大船団。上空を通過していく友軍機の群れに手を振っていた兵士の一人が調子に乗りすぎて海に落ちてしまうが、彼一人のために艦隊を止めるわけにはいかず見捨てられてしまう。戦艦や航空機の大軍による支援の砲爆撃は、まさに天を割り地を裂く凄まじさ。だが、生き延びた敵兵が放つたった一発の銃弾が当たれば、それで兵士個人の命はおしまいなのだ……。こうした戦争全体を支配する論理のマクロな視点と、そこに巻き込まれる個人のミクロな視点のギャップを視覚で理解させてしまうのは、映画ならではの力と言えよう。
英雄などおらず誰もが交換可能なコマでしかない地獄のような硫黄島の戦場で、たまたま2本目の星条旗を立てるはめになった3人の主人公たちは、本国に送還されて虚像の英雄を演じることを強いられる。新たなコマを調達し、前線に送り込む資金を集めるために──。とかく情緒の押しつけばかりに偏りがちな日本の戦争映画とは違って、この映画は観客に自分で考えることを促すように作られている(こういう合理性ゆえにアメリカは戦争にも強いのだけど)。戦場を完全に再現できてしまう物量ともども、羨ましい限りである。前線と銃後を対比するために主人公たちの視点の時制をめまぐるしくカットバックさせているのは良いとして、そこへさらに父と戦友の体験談を聞く息子の視点までも織り交ぜてしまった語り口は、やや混乱気味。もう少し整理して欲しかったところだが、それでも見応えのある映画だったと思う。
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