映画『鬼火』を見る
私の住まいがある地域はテレビの電波状態が悪いため、ケーブルテレビの回線を通じて地上波の無料放送を視聴しているのだが、ケーブルテレビの有料放送はサービスに加入していないので見られない。有料放送で見たい番組があるときには、二世帯住宅で同居している父が加入者なので、そちらに頼ることになる。今日はチャンネルNECOで、千葉泰樹が吉屋信子の短篇を映画化した『鬼火』(1956)が放映されたので、録画させてもらってさっそく鑑賞した。
吉屋信子の「鬼火」(1951)は、国産怪奇小説アンソロジーの定番である中島河太郎・紀田順一郎編『現代怪奇小説集』に収録されたりもしているので、読まれた方も多いかも知れない。重病で寝たきりの夫を抱えて困窮している人妻に対し、ガスの集金人が料金を勘弁する代わりに肉体を要求したために起きる悲劇を描いた小品である。明確な超自然現象があるわけではないのだが語り口は怪談そのもので、不幸な夫婦の無念の思いを伝えるかのように燃え続けるガスの炎(これがタイトルの「鬼火」なのである)が悽愴な印象を残す。現行の刊本としては、他にも「もう一人の私」「鶴」「嫗の幻想」といった幻想短篇が収録されている、講談社文芸文庫の『鬼火・底のぬけた柄杓』[bk1][Amazon]がお勧めである。
映画版『鬼火』は、東宝が昭和30年代に文芸作品を45分ほどの短篇として映画化する<ダイヤモンド・シリーズ>の一篇として制作したもの。原作は上記の文庫版でわずか9ページ、そのままでは45分の映画にもできないので、ずいぶん脚色されていた。
まずタイトル前に、次のような字幕が映し出される。
気の毒なのは
此の人たちの運命であった
世間にはふとしたことから
その人の一生を
左右することが
ありがちだ……
──作者──
これが本当に吉屋信子の言葉なのかどうかは疑わしい気もするけれど、ともかくこのように映画版では、この物語が平凡な人間がふとしたことで誘惑に負け、道を踏み外したために起きた悲劇であることが強調されているのである。
原作ではただ嫌な奴だった主人公のガス集金人は、この映画では憎めない小心者である。その人となりを伝えるために、他の集金先での出来事や、同僚や下宿先のお上さんとの交流といった原作にはないエピソードが付け加えられており、加東大介が難しい役どころをユーモラスに演じている。また、原作では一切描写されなかった夫婦側の視点も導入されていて、ガス集金人の要求を容れて決死の覚悟で出掛ける妻と、それを解っていて見送る夫といった愁嘆場が繰り広げられる。
こうした脚色のために映画版『鬼火』は、引き締まった怪談の趣がある原作と較べると、やや冗長なメロドラマになってしまっている感は否めない。しかしながら、主人公の複雑なキャラクターを巧みに表現している千葉泰樹監督の手腕と加東大介の好演は否定してしまうには惜しいし、そのおかげで結末のショックがいっそう増しているとも言えるのである。伊福部昭によるおどろおどろしい音楽の効果もあって、鬼気迫るクライマックスもなかなかのものだった。地味な短篇映画なのでビデオやDVDになることも望めなさそうだし、今回のような有料放送以外での鑑賞は難しいと思うが、もしも機会があれば一見の価値はあるだろう。
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