2022/11/23

オリヴァー・オニオンズ『手招く美女 怪奇小説集』巻末解説補遺(2)オニオンズと「モダン・ホラー」と「モダンホラー」

 オリヴァー・オニオンズ『手招く美女 怪奇小説集』(国書刊行会)[Amazon][kindle]解説執筆の依頼を受けた際に、編集サイドからは「(平井呈一的な用法での)モダン・ホラーの系譜におけるオニオンズの位置づけ」について論じて欲しいとの要望がありました。この「・」が付いた「モダン・ホラー」は、スティーヴン・キングに代表される「モダンホラー」とはまた別物でして、それは『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)第2巻[Amazon]の、平井呈一による解説に由来しています。

『怪奇小説傑作集』は第1巻が、マッケン、ブラックウッド、M・R・ジェイムズら三大巨頭が現れ英米近代怪奇小説の基礎ができあがるまで、第2巻がそれを受けた新世代の改革というような構成でした。その「新世代の怪奇小説」を平井呈一は、「モダン・ホラー・テイルズ」と呼んでいます。しかし『怪奇小説傑作集』の刊行年は1969年、しかも第2巻収録作は最新のヘンリー・カットナー「住宅問題」ですら1948年発表だから、そこでは私たちが馴染んでいる1960年代以降の「モダンホラー」は眼中にないのです。

『手招く美女』巻頭に置かれたエッセー「信条」に明らかなように、オリヴァー・オニオンズは先行する怪奇小説の発展史を意識した改革者であり、平井呈一のいう「モダン・ホラー」にぴったり当て嵌まる作家です。とはいえ、前述の「モダン・ホラー」の事情まで了解している読者はごく限られるでしょう。そこまで説明する余裕はとてもありませんので、解説では「モダン・ホラー」という言葉は使わずにおいて、「脱ゴシック」をキーワードに近代怪奇小説史におけるオニオンズの位置を語ってみました。

 この「脱ゴシック」という視点は、かつて『幻想文学』を読まれていた方ならお気づきでしょうが、第63号に書いた評論「ゴシック・怪奇・ホラー 超自然恐怖小説の伝統と変遷」がベースになっています。「20年経っても同じことを言っているのか」と笑われそうですけど、今でもホラー史というと18世紀から21世紀に至るゴシック性の継承という視点で語られることがほとんどですので、まあ延々逆張りみたいなことを続けているわけです。それに、何よりもオニオンズが「信条」で自らの幽霊描写とゴシックとの違いを強調していますから、今回の解説は「脱ゴシック」がぴったりだろうと。

 その一方で、オニオンズの作品には、その後の「モダンホラー」の先駆けとなっている面もあることも、指摘しています。具体的には「手招く美女」と、シャーリー・ジャクスン『丘の屋敷』(1959)、スティーヴン・キング『シャイニング』(1977)の類似を例に挙げたのですが、実はもう一人、日本での知名度があまり高くないため言及するのを断念したモダンホラー作家がおります。それは、『虚ろな穴』(1991)[Amazon]のキャシー・コージャです。

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 今回が初訳の「ベンリアン」は、怪異の根源は明かさずに、それに触れた者たちのカルト集団のような熱狂と心身の変容を描くスタイルを採っています。しかも、超越的な「何か」と人間を媒介するのは芸術で──「これはキャシー・コージャそのままじゃないか!」と驚かされたのです。モダンホラー・ブームの末期に現れ異能の作家として評価されたコージャに、80年も先駆けているとは! でも、悲しいことにコージャは、日本では『虚ろな穴』ただ一作のみで知られており、それもさほど広く読まれてはいないようです。コージャに言及するとなると、彼女の紹介から始めないといけません。

 というわけで、泣く泣くコージャに触れるのは断念しました。ですから、この場で皆さんにお勧めしたいのです。『虚ろな穴』に感銘を受けた人は、「ベンリアン」を読んでみてください。「ベンリアン」に感銘を受けた人は、『虚ろな穴』も読んでみてください。決して後悔はしないはずです。

 

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2022/11/13

オリヴァー・オニオンズ『手招く美女 怪奇小説集』巻末解説補遺(1) 書誌データについて

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 本日11月13日は、1873年にオリヴァー・オニオンズが生まれた日。そこでTwitterで予告していたとおり、オリヴァー・オニオンズ『手招く美女 怪奇小説集』(国書刊行会)[Amazon][kindle]で私が担当した巻末解説に関する補遺的な連投ツイートを、今日からこのブログに整理再掲していきます。またまた不定期のだらだら続く更新になりそうな予感もありますが、ご容赦を……。

 さて今回の巻末解説では、オリヴァー・オニオンズについて日本語で書かれた資料がまだほとんどないという事情もあり、今後のオニオンズ研究の基礎として役立てるものを目指してみました。とはいえネタバレはありませんので、先に解説から読んでも大丈夫。でも理想をいえば、先入観なしにまず本文を味わって「この時代にこんな作品があったのか!」と驚いていただくのがよいかと。既訳の作を読まれている方も、新訳により印象が一新されていることにきっと驚かれるはず。

 特に「手招く美女」は、平井呈一の味わい深い訳文に親しまれている読者も多いことでしょう。しかし平井訳は、主人公の女友達エルシーの言葉遣いが設定年齢を考慮したためか、いわゆる「オールドミス」(現在では不適切な言葉)的な堅苦しさが強調されたものになっていました。ところが、エルシーは当時の女性としてはむしろ先進的な気性のキャラクターで、性格も快活です。だからこそ主人公は彼女を、執筆中の小説で理想のヒロインのモデルにしていたわけで、平井訳の言葉遣いではちぐはぐな印象を否めません。今回の南條竹則さんによる訳文では、そこがすっかり改められています。日本でもオニオンズの代表作として長らく知られてきた「手招く美女」は、今回の新訳によって真価が初めて明らかになるというべきでしょう。

  先年、『幻想と怪奇2 人狼伝説 変身と野生のフォークロア』(新紀元社[Amazon]に訳載された「屋敷の主人」もそうでしたが、オニオンズはこのころの男性怪奇作家としては女性を活き活きと描くことに長けていました。その特性が最大限に発揮されているのが、本書で初めて日本に紹介される「彩られた顔」です。翻訳を担当された館野浩美さんも紹介されているとおり、これは怪奇幻想小説史上でも異色の傑作として海外では高く評価されているものです。とにかくまず読んで、驚いてください。

  そうして本文を読んでから解説を読み、その後また本文を再読すれば、もっとも楽しんでいただけるのではないかと。私としてはできることはやり尽くしたつもりですが、調査しきれなかったところもあり、逆に用意はしていたのに枚数の都合で盛り込めなかった話題もありますので、これからご紹介していきます。第1回は、書誌データの疑問点について。

  藤原編集室さんから今回のご依頼をいただいたのは、昨年9月末のこと。〆切は12月頭だったのでごく一般的なスケジュールというべきですが、たまたま『図書新聞』の書評原稿仕上げの最中で、さらに『怪と幽』書評原稿の依頼ともちょうど重なっていたので、私個人としてはかなりきつめのお話でした。最終的にはさらに一週間ほどの猶予をくださったのですが、それでも調査しきれないところがいくつか残ってしまいました。

  まず、【オリヴァー・オニオンズ怪奇幻想系著作リスト】について。生前刊行の怪奇系中・短篇集は、『Widdershins』(1911)が始めだったとしています。ほとんどの資料ではそうなっているのですが、英語版Wikipediaを含めいくつかのデータベース類で、その前に怪奇系の作品集として『Back o' the Moon』(1906)があったとしていることもあります。ところが、その根拠が判らないのです。

  私の手元にある商業出版物では唯一、Matt Cardin編『Horror Literature Through History: An Encyclopedia of the Stories That Speak to Our Deepest Fears』(Greenwood Pub Group,2017)[Amazon][kindle]だけが、『Back o' the Moon』がオニオンズ初の怪談集であったとしています。しかし、この本でも『Back o' the Moon』の中身については何も触れていません。ほかのホラー系資料に当たっても『Back o' the Moon』については何も言及はなく、その収録作がこれまでアンソロジー等に収録されたことも、どうやら一度もないようです。結局、何をもってこの本が怪談集であったとしているのか、まったく判りません。

 ネットを検索しても、『Back o' the Moon』とその収録作を読んだという感想にはまったく行き当たりません。ただ唯一、古書店の商品紹介ページで内容に触れているものがありました。そこでは「supernatural fiction」ではなく「regional fiction」だと書かれています。「regional fiction」とは日本では聞き慣れないジャンル名ですが、地方誌に取材した小説というぐらいの意味でしょうか。

 実はこの『Back o' the Moon』、Project Gutenbergで無償ダウンロード可能です。これを読んでしまえばはっきりするのですが、この作品集は英和辞典には載っていないような特殊な用語や方言が頻繁に使われていて、私の語学力では通読にするのにどれぐらい掛かるやら、見当も付きません。〆切にとても間に合わなくなってしまう。ざっと目を通した限りでは、確かに超自然要素のない「regional fiction」らしく思われました。さらに今回訳出されたオニオンズの「信条」にも、『Back o' the Moon』につき言及はなく、『Widdershins』が最初の怪談集と受け取れます。これを覆すとなると、確たる証拠が要るのではないか? という判断で、今回のリストでは『Widdershins』をオニオンズ最初の怪談集としておきました。

 もう一つは、未訳の長篇についてです。こちらも私は実物を読んでおらず、参考文献に挙げた二次資料のみを頼りにしています。複数の資料を照らし合わせはしましたが、内容の紹介が間違っている可能性もゼロではありません。訳題も、内容と合わないものになってしまっているかもしれません。未訳書の題名については、無理に訳さず原題のままにしておこうと当初は考えていたのですが、高沢治さん訳の「信条」がすべて書名を邦訳されていましたので、合わせた方が読みやすいだろうと判断し「えい、やあ!」で訳してしまいました。

 以上の疑問点については執筆中の打ち合わせで藤原義也さんにも一応は相談しましたが、最終的な文責はもちろん私にあります。もしも誤りに気づかれた方がいらっしゃいましたら、遠慮なくご指摘いただきますとたいへん助かります。

 

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2015/12/27

『幽』第24号

 怪談専門誌『幽』第24号[Amazon]が発売された。特集は「リアルか、フェイクか。──虚実のあわいに極意あり」で、詳しい内容はこちら

 私は今回、ナイトランド叢書の既刊分からブラム・ストーカー『七つ星の宝石』[Amazon]とウィリアム・ホープ・ホジスン『幽霊海賊』[Amazon]の2冊を書評させていただいている。前者は1903年、後者は1909年に発表された長篇怪奇小説である。こうした古典的な作品を紹介する時には、発表された時代の背景やホラー史的な位置づけをできるだけ示すように、私は心掛けている。その分、下調べにけっこうな手間が掛かることもあるのだけど、それはそれで楽しい作業でもある。

 一般に英米怪奇小説の黄金期というと、19世紀後半から20世紀前半とされている。しかし、それは厳密には短篇に限られる話で、長篇となるといくらか後にずれるように思う。19世紀後半はまだまだゴシック小説の冗長さ雑多さを引きずっていて、ようやく19世紀末から20世紀初頭にかけて怪異を描くことに専念した小説として洗練されていったというのが実態ではないだろうか。そこで今回の書評では、ゴシック小説からの脱皮という観点に主軸を置いている。

もちろん、そんな小難しいことは度外視して、今、自分がそれぞれの作品をどう感じるかを優先する読み方も有効だし、そういう読み方に沿った書評も需要があるだろう。ホラー史になんて関心がない私の妻には、「あんたの書評は正しいかも知れないが楽しくない」などと冷たく言い放たれることがよくある。だが、ジャンル専門誌の書評なのだから、基礎的なところをまず提示すべきではないかという思いがあって、私はいつもこうしている。

 なお、版元も私の書評も『七つ星の宝石』『幽霊海賊』ともに本邦初訳としているが、厳密には『七つ星の宝石』の児童向け再編短縮版がかつてポプラ社文庫で『ミイラは夜、血をながす』[Amazon]として1988年に邦訳されている。したがって初の完訳とするのが正しいのだが、煩雑になるので書評では触れなかった。

 また、応募原稿の下読みを担当させていただいていた「幽」文学賞が、「幽」怪談実話コンテストともども、残念ながら今回で終了する旨の告知があった。先ごろ日本ホラー小説大賞を受賞した澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川書店)[Amazon]が妖怪を主題にしながらも怪談ではなくホラー的な切り口の快作だったこともあり、「幽」文学賞がホラー的ではない怪談文学を打ち出せていけば、おもしろい競闘になっていくかもと期待していたのだが。ツイッターなどあちこちで終了を惜しむ声も上がっていて、おそらく怪談作家志望者の皆さんの喪失感は、私なんかとは比較にならないほど深いのだろうと思う。

 だが、少なくとも「幽」文学賞を狙っていた方々に関しては、別に道が断たれてしまったわけではない。1990年代の国産ホラー小説ブームを経て、超自然の恐怖を主題にした小説は今や、それ以前とは比較にならないほど広範囲に娯楽小説のジャンルとして根付いているからだ。日本ホラー小説大賞はもちろん、怪談で切り込んでいけそうな文学賞はまだまだある。そして、どこからデビューしようと優れた怪談の書き手であれば、『幽』も見逃すはずがない。どうかここで立ち止まらず、次の目標を定めて歩み続けていただきたい。

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2015/11/23

モダンホラーの起源を求めて

「モダンホラー」という言葉は、どうやら英米ではあまり使われなくなってきているらしい。たとえば英語版Wikipediaには、そもそもmodern horrorという項目が存在しない。書籍の題名や宣伝文句にも、最近はほとんど使われていない。かつてのブームを差す意味ではまだ使われているけれど、今現在のホラーは単に「ホラー」で、わざわざ「モダンホラー」といわなくなってきた。ジャンルを差す言葉としては、もはや死語になりつつあるのではないか。

「モダンホラー」という言葉は、そもそもが「新しいよ」と売り出すためだけに作られたような言葉で、実態ははっきりしない。スティーヴン・キングが『キャリー』(1974)でメジャーデビューしてからもう40年以上経つのだから、それを一括りにジャンルとして語るのも難しかろう。単に「ホラー」でよいではないか、となっても何の不思議もないわけだ。なのに、私はブログでもツイッターでも「モダンホラー」という言葉を使い続けている。このブログには、わざわざ「モダンホラー」タグを設けた。使われなくなってきたからこそ、ますますこだわりが生じてしまったのである。

 そのこだわりの根源は、十代の終わりごろ、里程標的なモダンホラー・アンソロジー『闇の展覧会』(1980)に接したときの、ときめきにあるように思う。これは書き下ろし競作集にもかかわらず収録作が異様に充実していて、中でもデニス・エチスン「遅番」とT・E・D・クライン「王国の子ら」の二作に衝撃を受けた。それまでに平井呈一の『怪奇小説傑作集』を中軸とした古典怪奇には馴染んでいたのだが、それらはやはりどこか懐古的なおもしろさでもあった。ところが「遅番」や「王国の子ら」を読んで、いきなり自分のすぐそばに怪異が迫ってきたような驚きを感じたのだ。厳密にいえば、ブラックウッドにせよラヴクラフトにせよ、当時の「モダン」ホラーではないかという話にもなるのだけど、ともかく前述のような個人的こだわりを、今一度掘り下げてみたいという気持がある。だから、いまさら「モダンホラー」なのである。

 先述したとおり、「モダンホラー」というのは実態が曖昧ではっきりしない言葉である。漠然と、「現代のホラー」というだけのことだというのが、ほんとうのところだろう。ただ、その使われ方を見ていると、一つの指標となり得るのはやはりスティーヴン・キングの存在で、彼がデビューして以降のホラーを指しているケースがもっとも多いようだ。一方で、キングが直接的に影響を受けているようなホラーも考慮する場合もあって、リチャード・マシスンやらロバート・ブロックやらの1950年代あたりのホラーを含んで指す場合もある。第二次大戦前にまで遡ることは、さすがにないだろう。

 こうした期間の区切り方に関しては、いくら議論をしてみたところで、厳密な結論なんて得られはしないだろう。そこで視点を変えてみて、万人が認めるであろうスティーヴン・キングの登場によるモダンホラー・ブーム、これがいかにして起こったかを考えてみてはどうか。

 一つの指標となり得るのは、出版点数だろう。しかし、私の知る限りでは、年代別のホラー小説本出版点数を長期にわたって追っているような資料は存在しない。そこで参考までに、私が猟書のために作っている個人的なリストに基づいて、不完全ながら長篇のみに限り、第二次世界大戦後からキングがデビューする1974年までの新作出版動向を概観してみる。

 実はこのリストの元になっているのは、以前にもこのブログで紹介したことのある、ホラー作家/研究家ドン・ダマッサがホームページ"Critical Mass"で無償公開している書誌データベース"Annotated Checklist of Speculative Fiction"の「ホラー」編である。ホラーに関する書誌データベースは、これ以外にもいくつか充実したものがネット上に存在する。だが、ダマッサは各作品の概要と自分なりの評価を書き添えてくれているので、私はこのデータベースを基に作ったリストを、猟書の手掛かりにしているのである。

 さて、このリストで1946-1974年の間にアメリカとイギリスで発表されたホラー長篇を数えると、以下のようになる。

1946-1950 15冊
1951-1955 24冊
1956-1960 35冊
1961-1965 41冊
1966-1970 144冊
1971-1974 258冊

 惜しいことにダマッサのデータベースはそれなりに遺漏があるので、実際の刊行点数はこれよりいくらか多い。とはいえ、動向を大づかみに概観するには、充分役立つだろう。新作ホラー長篇の刊行はなだらかな増加ではなくて、おおよそ1950年代後半にホップ、1960年代後半にステップ、1970年代前半にジャンプ、という三段跳びのような動向になっていることが窺える。特に動きが激しい1966-1974年については、1年単位の動向も見てみよう。

1966,18冊
1967,18冊
1968,29冊
1969,30冊
1970,49冊

1971,50冊
1972,53冊
1973,69冊
1974,86冊

 

 第二次大戦後から1950年代にかけては、『ウィアード・テイルズ』に代表されるホラー系パルプマガジンが姿を消していったり、古典怪奇小説を支えていた作家世代がほぼリタイアしていく時期に当たる。一方で、SFはこのころ、万人向けのジャンル・フィクションとして著しく発展していっている。同時期の映画作品を見ても、戦前はゴシック風ホラーで一世を風靡したユニバーサル・プロがSF系の映画に鞍替えしていったり、ホラーがSFに取って代わられているという印象は強い。小説でも同様の傾向があったのではないだろうか。

 映画に関してこの状況が変わり出すのは1950年代後半以降で、イギリスのハマー・プロとアメリカのAIPのホラー路線が成功し、ゴシック風ホラー映画を再興するような動きが起きていく。さらに、パルプ・マガジンに替わって大衆小説提供の主役となったペーパーバック出版では、後に30年も続く人気アンソロジー・シリーズ"The Pan Book of Horror Stories"が1959年に始まっている。アーカム・ハウスがマニア向けのハードカバー版で発掘してきたラヴクラフトの諸作が、各社のペーパーバック版で普及し始めるのも、このころである。先述の1950年代後半の「ホップ」の時期には、ホラーならではの超自然の恐怖の魅力を再発見する気運が出始めていたと見て、間違いないだろう。

「ステップ」時期の1960年代後半には、アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』の出版(1967年3月)と、映画化(1968年6月)があった。この大ヒットの影響は非常に大きく、まったく関係ないようなホラー・ペーパーバックの惹句に『ローズマリーの赤ちゃん』が引き合いに出されているものも、よく見掛ける。以前にこのブログでも紹介した〈キティ・テルフェア・ゴシック・シリーズ〉のような、旧来のオカルト探偵物とは一線を画すキャラクター小説がホラー・ジャンルに次々と現れるようになったのも、このころからだ。また、女性向けのロマンス小説が巨大なジャンルに成長し、その中には合理的な決着に止まらず超自然の領域に踏み出すものも増えてきていた。

「ジャンプ」時期の1970年代前半には、ウィリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト』の出版(1971年5月)と、映画化(1973年12月)があった。新作ホラー長篇の出版はすさまじい勢いで増加しており、キングの『キャリー』が発表された1974年には実に89冊と、1946-1960年の15年間の74冊を上回る数がわずか1年間で出ている。出版点数の増加に伴い、作品の様式もいっそう多様さを増している。超自然系ロマンス小説では、モダンホラー・ブーム沈静化以降に伸張したパラノーマル・ロマンスに先駆けて人外の存在との恋愛を描いた作品すら、すでに見受けられるほどだ(たとえば、Louisa Bronte"Lord Satan",1972)等)。キング以降のモダンホラーに直接つながっていく作品様式は、キングの登場までにはほぼ確立されていたと見て、差し支えないように思う。キングの登場が、モダンホラーをより大きなものに押し広げたことは間違いないのだが、彼もまた、それ以前からのホラー・ジャンルのより大きなうねりに支えられていたと考えるべきだろう。

 ところが、こうしたキング登場以前のモダンホラーの動向は、日本ではこれまでほとんどまともに紹介も研究もされてこなかった。キング以前のモダンホラー長篇のうち日本で翻訳出版されたものは50数冊ほどで、全体の1割弱といったところだろうか。選ばれている作家・作品に片寄りもあって、全貌を窺い知ることなどとてもできない。しかし、だからといって単純に日本のホラー翻訳者や研究家を責めたりするのは、筋違いだろう。なぜなら、英米本国でもキング登場以前のモダンホラーについては、まだ充分に評価が定まっていないからだ。急激に量が増えただけに玉石混淆なせいもあるが、あちらのホラー小説史研究でも言及される作品はごく限られており、多くの作品はリプリントもされず忘れ去られた状況にある。

 だが、こうした状況に近年、変化の兆しが見えてきている。若いころにこうした作品を読んできたファンたちが埋もれた作品を発掘紹介する個人サイトを立ち上げたり、英国ホラーを中心にファン同士が語り合うフォーラムサイト"Vault Of Evil: Brit Horror Pulp Plus!"が生まれたりして、徐々に情報がネット上に集積・流通され始めている。さらには、以前にこのブログでも紹介したヴァランコート・ブックスランブルハウスのように、埋もれたホラーの復刻出版に乗り出す小出版社も複数現れている。

 このブログでも今後、なかなか邦訳されそうにない作品を中心に未訳の作品を順次紹介し、キング以前のモダンホラーの姿を探っていこうと考えている。いつものことながら不定期な超スローペースになるだろうから、どうか気長にお付き合いください。

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2015/09/30

文庫版『残穢』解説拾遺

 twitterではすでにお知らせしたが、7月末に発売された小野不由美『残穢』文庫版[Amazon]の巻末解説を書かせていただいた。

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 文庫本解説の依頼を受けたのはこれが初めてで、正直なところ「これでいいのだろうか?」と戸惑いながら書いた。普段はエゴサーチなんてほとんどやらないのだけど、今度ばかりはどう受けとめられているのか気になってしまい、発売後しばらくネット上の評判をずっと見ていた。幸いにもまずまず好評をいただいているようで、ほっと胸をなで下ろしている。

 一方で、こちらが予期せぬ反応もあって、それがまた、なかなかおもしろかった。そのずれについて、少しお話ししてみよう。

 何しろ初めての経験だから、まずはこちらから担当編集者氏に「特に気をつけるべき点はありますか?」と率直に尋ねてみた。すると、「枚数は最大16枚程度、短くても構わない」ということと、「ネタバレは厳禁」の2つだけ。ほかには何ら制約はなく、自由に書いてくださいという返答であった。

 それなりの枚数がもらえたので「これなら本格的な『残穢』論が書けるかも?」とも思ったのだが、すぐあきらめることになった。『残穢』の魅力は精緻に組み上げられた語りの仕掛けにあり、それらを具体的に解析していかないことには正面から論じることができない。ネタバレを禁じられては、手も足も出せないのである。さて、どうしたものか?――呻吟している私を見て、妻はあっさりこう言い放った。

「そら文庫解説なんやから、この本がどういうおもしろさを持っているかを訴えてやね、読者が『この本、買おう!』という気になればええんでしょ?」

 ごもっとも。いま求められているのは、本格的な評論などではない。いうなれば、お化け屋敷の呼び込みのようなものなのだ。心を入れ替え、その線で構想を練り直した。

 想定読者層は、怪談ファンでも小野不由美ファンでもない。映画化のニュースで『残穢』について知ったり、書店で平積みを見掛けたりして、店頭でふとこの本を手に取るような人たち。そんな人たちが店頭でさっと通読でき、これがどういう成り立ちの本で、どういう怖さが楽しめるのかがすんなり理解できるような長さと密度の文章。まずそれを絶対的な条件とする。そうすると、枚数制限は16枚以内だが、理想はせいぜい10枚程度なのではないか。作品誕生に至る経緯や背景の説明はきっちりやるとしても、『残穢』そのものに触れないで進めるのは見開き2ページ程度が限度だろう。私のことなどまったく知らない読者の方が多いはずだから、いわゆる「自分語り」はいっさいやらない――そんな調子で、事前にルールを定めていった。

 かんじんの「『残穢』の怖さ」とはどういうものなのか。これについては、第26回山本周五郎賞の選考委員諸氏が各々の読書体験を生々しく端的に語っていたので、そのまま引用させていただく形で導入部を拵えていき、さらにそれらをまとめ直しつつ強調するフレーズを付け加えた。

「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」

 ここまでは不思議なほどすんなりと書けて、なんだかほっとした気持になった。これで解説の核ができた。この先どのように原稿が展開していこうとも、この核さえ見失わなければ、ちゃんとまとめあげられるだろう。そういう確信が持てたからだ。また、このフレーズは、編集部にも思いのほか気に入ってもらえたようで、文庫の帯や『残穢』特設サイトでの宣伝にまで使っていただいた。

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 繰り返しになるが、文庫版『残穢』解説はあくまで解説として書いたものであって、評論として書いたものではない。もしも評論的な読みどころがあるとしたら、怪異描写の写実性の追求という観点で現代怪談ブームの流れを総括したこと、その中での『残穢』の位置づけを語ったこと、その2つぐらいだろうか。だが、それらにしても厳密に論じようとしたらかなりの枚数を要し、文庫解説の枠をはみ出してしまうので、あくまで概説に止めている。

 著者小野不由美はホラーと怪談をかなり厳密に分けて意識しており、『残穢』は怪談として書いたものだと各種のインタビューで明言している。一方で小野不由美には、ホラーとしての代表作に『屍鬼』というとんでもない傑作がある。『屍鬼』は、前世紀末から今世紀初めにかけて、スティーヴン・キングに代表される海外モダンホラーのインパクトを現代日本の風土に移入しようとした作家たちの試み――すなわち、東雅夫氏がいうところの《ホラー・ジャパネスク》の一つの頂点を極めた作である。『残穢』は怪談文芸ブームの一つの極みというべき作だから、本来はこの二作を対照して論じるべきだろう。

 しかし、《ホラー・ジャパネスク》を概観するのに、いったい何枚を要するか? 想定した読者層が、そこまでホラーと怪談の違いに関心を抱くだろうか? 映画版『残穢』の方は、まず間違いなく《Jホラー映画》の1本として宣伝され、受容されるだろうから、いよいよ話がややこしくなる。やむを得ず、『残穢』と『屍鬼』および《ホラー・ジャパネスク》との関わりについて触れるのは断念し、現代怪談ブームとの関わりのみを語ることにした。

 さて、現代怪談ブームの流れを語るには、古来の伝統的な怪談との違いを明らかにせねばならない。そうすると江戸期には仏教・儒教的な道徳観の制約があり、近代に入ってからの心霊主義もまた、科学を装いながら宗教的モラルの束縛を受けていたことをきっちり語る必要がある。実際にそういう形で原稿を書き進めていたのだが、明治に入る手前でもう8枚に達してしまった。この調子ではおそらく4、5ページほども『残穢』の話が出てこなくなるし、そもそも制限枚数を大幅に超過する!――というわけで、書きかけの初稿は破棄し、大幅に省略して書き直した。

 そんな次第なので、本格的な評論を期待して文庫版『残穢』解説を読まれた場合には、ここが、あそこが……といろいろ気づかれる箇所が多いはずだと思う。言い訳めくけれど、あくまで解説として書かれたものとして、どうかご寛恕いただきたい。

『残穢』は怪談小説なのだから、それを手に取る読者は、怖がることを期待しているはずである。呼び込みに徹すると決めたからには、読者の「怖がるぞ」という気分を盛り立てなければならない。これは私が今まで書いてきた、批評や評論は本来、感情ではなく理性に働きかけるものだから、それを越えた工夫が必要なのだろう。

 だから文庫版『残穢』解説の導入部は、読者の「怖がるぞ」という気分に情緒的に訴えかけることを強く意識した書き方になっている。ところが、続きを書き進めているうちに、なんだかいつものように文章が理屈っぽくなってきてしまい、何かもう一押し、理性ではなく感情に訴えかけるべきだという気がしてきた。

『残穢』が放つ伝染する穢れの恐怖は、現代創作怪談の横綱格『リング』にも似通っている。だが、不幸の手紙ビデオ版とでもいうべき『リング』が現代風俗を取り込むことを強く意識しているのに対し、『残穢』は古来の民俗的概念に着目し近代日本史を過去へ遡っていく。それに『リング』はどこまでもよくできた作り話に徹しているが、『残穢』は姉妹編である『鬼談百景』[Amazon]を介して実話の領域にも踏み込んでいく。一見似ているようで、真逆なベクトルも持っているのだ。

 そこでまず、『残穢』の恐怖は過去志向だからこそ『リング』以上に本源的・普遍的であると説き、「誰も逃れられない」と強調した。さらに、もともとは書誌情報に絡めて解説中盤に配していた、『鬼談百景』を介した現実への侵犯に関する説明を末尾へ移動し、全文が導入部のまとめである「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」というフレーズに回帰していく構成とした。この構成によって、読者を絡めとって離さない『残穢』の恐怖を、論理ではなく感覚的に読者に訴えかけることができないかと考えたのだ。

 こうして書き上げた原稿が15枚程度。ぎりぎりまで削って14枚弱にした。目標の10枚は超過したが、これ以上削るとかえって読みづらくなるので許容範囲とした。それはよいとして、これまで自分が書いてきた文章ではあり得ないほど「煽ってるよなあ」というのが率直な感想であった。やりすぎなのではないか?……でも、呼び込みらしくはなったよな?……はたしてこれが正解なのか、ずいぶん逡巡した。迷った末に手を加えず編集部に送った結果が、ほぼそのまま本になったのである。

 読者諸氏にはおおむね好意的に受けとめていただいているようで、ほんとうにありがたい。意外にも、評論として評価してくださる方もいらっしゃるようだ。望外の喜びではあるけれど、反面、穴があったら入りたいような気持ちでもある。また、まったく予想もしていなかったような反応もあった。何と、『残穢』そのものだけでなく、私が書いた解説や帯のフレーズまでもが怖いという声が、方々からあがってきたのだ。

 私としては、読者があらかじめ抱いているはずの「怖がりたい」という気分を盛り立てようとは狙ったが、直接的に解説文や帯で恐怖を喚起しようとまでは思っていなかった。だから「ほんとにこれが怖いの?」というのが、偽らざる気持ちである。ただ一つ、なるほどと思わされたのが、『残穢』本文を読んだ後に解説を読んで、また怖くなってしまったという意見であった。『残穢』だけでも怖いのに、その怖い読後感が、私の煽り気味の解説でまた増幅されてしまったと。これはあり得る話だろう。

 ところが、それよりも「解説や帯を読んだだけで怖くなって、買えなかった」という反応の方が、なぜかずっと多いのである。私の直接の知人にまで、そんなことをいう者が二人も出てきた。これには参った。呼び込み失格ではないか……。どこでどう口コミが広がっていったのか、ついにはこんなツイートまで現れる始末。

 いやいや、私はそんなこと書いていませんって。そんな帯が付いている文庫版『残穢』は存在しない。はず――かくして、文庫版『残穢』解説と帯は、それ自体がある種の怪談になってしまった――。

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