カテゴリー「怪奇幻想小説」の記事

2015/12/27

『幽』第24号

 怪談専門誌『幽』第24号[Amazon]が発売された。特集は「リアルか、フェイクか。──虚実のあわいに極意あり」で、詳しい内容はこちら

 私は今回、ナイトランド叢書の既刊分からブラム・ストーカー『七つ星の宝石』[Amazon]とウィリアム・ホープ・ホジスン『幽霊海賊』[Amazon]の2冊を書評させていただいている。前者は1903年、後者は1909年に発表された長篇怪奇小説である。こうした古典的な作品を紹介する時には、発表された時代の背景やホラー史的な位置づけをできるだけ示すように、私は心掛けている。その分、下調べにけっこうな手間が掛かることもあるのだけど、それはそれで楽しい作業でもある。

 一般に英米怪奇小説の黄金期というと、19世紀後半から20世紀前半とされている。しかし、それは厳密には短篇に限られる話で、長篇となるといくらか後にずれるように思う。19世紀後半はまだまだゴシック小説の冗長さ雑多さを引きずっていて、ようやく19世紀末から20世紀初頭にかけて怪異を描くことに専念した小説として洗練されていったというのが実態ではないだろうか。そこで今回の書評では、ゴシック小説からの脱皮という観点に主軸を置いている。

もちろん、そんな小難しいことは度外視して、今、自分がそれぞれの作品をどう感じるかを優先する読み方も有効だし、そういう読み方に沿った書評も需要があるだろう。ホラー史になんて関心がない私の妻には、「あんたの書評は正しいかも知れないが楽しくない」などと冷たく言い放たれることがよくある。だが、ジャンル専門誌の書評なのだから、基礎的なところをまず提示すべきではないかという思いがあって、私はいつもこうしている。

 なお、版元も私の書評も『七つ星の宝石』『幽霊海賊』ともに本邦初訳としているが、厳密には『七つ星の宝石』の児童向け再編短縮版がかつてポプラ社文庫で『ミイラは夜、血をながす』[Amazon]として1988年に邦訳されている。したがって初の完訳とするのが正しいのだが、煩雑になるので書評では触れなかった。

 また、応募原稿の下読みを担当させていただいていた「幽」文学賞が、「幽」怪談実話コンテストともども、残念ながら今回で終了する旨の告知があった。先ごろ日本ホラー小説大賞を受賞した澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川書店)[Amazon]が妖怪を主題にしながらも怪談ではなくホラー的な切り口の快作だったこともあり、「幽」文学賞がホラー的ではない怪談文学を打ち出せていけば、おもしろい競闘になっていくかもと期待していたのだが。ツイッターなどあちこちで終了を惜しむ声も上がっていて、おそらく怪談作家志望者の皆さんの喪失感は、私なんかとは比較にならないほど深いのだろうと思う。

 だが、少なくとも「幽」文学賞を狙っていた方々に関しては、別に道が断たれてしまったわけではない。1990年代の国産ホラー小説ブームを経て、超自然の恐怖を主題にした小説は今や、それ以前とは比較にならないほど広範囲に娯楽小説のジャンルとして根付いているからだ。日本ホラー小説大賞はもちろん、怪談で切り込んでいけそうな文学賞はまだまだある。そして、どこからデビューしようと優れた怪談の書き手であれば、『幽』も見逃すはずがない。どうかここで立ち止まらず、次の目標を定めて歩み続けていただきたい。

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2015/11/23

モダンホラーの起源を求めて

「モダンホラー」という言葉は、どうやら英米ではあまり使われなくなってきているらしい。たとえば英語版Wikipediaには、そもそもmodern horrorという項目が存在しない。書籍の題名や宣伝文句にも、最近はほとんど使われていない。かつてのブームを差す意味ではまだ使われているけれど、今現在のホラーは単に「ホラー」で、わざわざ「モダンホラー」といわなくなってきた。ジャンルを差す言葉としては、もはや死語になりつつあるのではないか。

「モダンホラー」という言葉は、そもそもが「新しいよ」と売り出すためだけに作られたような言葉で、実態ははっきりしない。スティーヴン・キングが『キャリー』(1974)でメジャーデビューしてからもう40年以上経つのだから、それを一括りにジャンルとして語るのも難しかろう。単に「ホラー」でよいではないか、となっても何の不思議もないわけだ。なのに、私はブログでもツイッターでも「モダンホラー」という言葉を使い続けている。このブログには、わざわざ「モダンホラー」タグを設けた。使われなくなってきたからこそ、ますますこだわりが生じてしまったのである。

 そのこだわりの根源は、十代の終わりごろ、里程標的なモダンホラー・アンソロジー『闇の展覧会』(1980)に接したときの、ときめきにあるように思う。これは書き下ろし競作集にもかかわらず収録作が異様に充実していて、中でもデニス・エチスン「遅番」とT・E・D・クライン「王国の子ら」の二作に衝撃を受けた。それまでに平井呈一の『怪奇小説傑作集』を中軸とした古典怪奇には馴染んでいたのだが、それらはやはりどこか懐古的なおもしろさでもあった。ところが「遅番」や「王国の子ら」を読んで、いきなり自分のすぐそばに怪異が迫ってきたような驚きを感じたのだ。厳密にいえば、ブラックウッドにせよラヴクラフトにせよ、当時の「モダン」ホラーではないかという話にもなるのだけど、ともかく前述のような個人的こだわりを、今一度掘り下げてみたいという気持がある。だから、いまさら「モダンホラー」なのである。

 先述したとおり、「モダンホラー」というのは実態が曖昧ではっきりしない言葉である。漠然と、「現代のホラー」というだけのことだというのが、ほんとうのところだろう。ただ、その使われ方を見ていると、一つの指標となり得るのはやはりスティーヴン・キングの存在で、彼がデビューして以降のホラーを指しているケースがもっとも多いようだ。一方で、キングが直接的に影響を受けているようなホラーも考慮する場合もあって、リチャード・マシスンやらロバート・ブロックやらの1950年代あたりのホラーを含んで指す場合もある。第二次大戦前にまで遡ることは、さすがにないだろう。

 こうした期間の区切り方に関しては、いくら議論をしてみたところで、厳密な結論なんて得られはしないだろう。そこで視点を変えてみて、万人が認めるであろうスティーヴン・キングの登場によるモダンホラー・ブーム、これがいかにして起こったかを考えてみてはどうか。

 一つの指標となり得るのは、出版点数だろう。しかし、私の知る限りでは、年代別のホラー小説本出版点数を長期にわたって追っているような資料は存在しない。そこで参考までに、私が猟書のために作っている個人的なリストに基づいて、不完全ながら長篇のみに限り、第二次世界大戦後からキングがデビューする1974年までの新作出版動向を概観してみる。

 実はこのリストの元になっているのは、以前にもこのブログで紹介したことのある、ホラー作家/研究家ドン・ダマッサがホームページ"Critical Mass"で無償公開している書誌データベース"Annotated Checklist of Speculative Fiction"の「ホラー」編である。ホラーに関する書誌データベースは、これ以外にもいくつか充実したものがネット上に存在する。だが、ダマッサは各作品の概要と自分なりの評価を書き添えてくれているので、私はこのデータベースを基に作ったリストを、猟書の手掛かりにしているのである。

 さて、このリストで1946-1974年の間にアメリカとイギリスで発表されたホラー長篇を数えると、以下のようになる。

1946-1950 15冊
1951-1955 24冊
1956-1960 35冊
1961-1965 41冊
1966-1970 144冊
1971-1974 258冊

 惜しいことにダマッサのデータベースはそれなりに遺漏があるので、実際の刊行点数はこれよりいくらか多い。とはいえ、動向を大づかみに概観するには、充分役立つだろう。新作ホラー長篇の刊行はなだらかな増加ではなくて、おおよそ1950年代後半にホップ、1960年代後半にステップ、1970年代前半にジャンプ、という三段跳びのような動向になっていることが窺える。特に動きが激しい1966-1974年については、1年単位の動向も見てみよう。

1966,18冊
1967,18冊
1968,29冊
1969,30冊
1970,49冊

1971,50冊
1972,53冊
1973,69冊
1974,86冊

 

 第二次大戦後から1950年代にかけては、『ウィアード・テイルズ』に代表されるホラー系パルプマガジンが姿を消していったり、古典怪奇小説を支えていた作家世代がほぼリタイアしていく時期に当たる。一方で、SFはこのころ、万人向けのジャンル・フィクションとして著しく発展していっている。同時期の映画作品を見ても、戦前はゴシック風ホラーで一世を風靡したユニバーサル・プロがSF系の映画に鞍替えしていったり、ホラーがSFに取って代わられているという印象は強い。小説でも同様の傾向があったのではないだろうか。

 映画に関してこの状況が変わり出すのは1950年代後半以降で、イギリスのハマー・プロとアメリカのAIPのホラー路線が成功し、ゴシック風ホラー映画を再興するような動きが起きていく。さらに、パルプ・マガジンに替わって大衆小説提供の主役となったペーパーバック出版では、後に30年も続く人気アンソロジー・シリーズ"The Pan Book of Horror Stories"が1959年に始まっている。アーカム・ハウスがマニア向けのハードカバー版で発掘してきたラヴクラフトの諸作が、各社のペーパーバック版で普及し始めるのも、このころである。先述の1950年代後半の「ホップ」の時期には、ホラーならではの超自然の恐怖の魅力を再発見する気運が出始めていたと見て、間違いないだろう。

「ステップ」時期の1960年代後半には、アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』の出版(1967年3月)と、映画化(1968年6月)があった。この大ヒットの影響は非常に大きく、まったく関係ないようなホラー・ペーパーバックの惹句に『ローズマリーの赤ちゃん』が引き合いに出されているものも、よく見掛ける。以前にこのブログでも紹介した〈キティ・テルフェア・ゴシック・シリーズ〉のような、旧来のオカルト探偵物とは一線を画すキャラクター小説がホラー・ジャンルに次々と現れるようになったのも、このころからだ。また、女性向けのロマンス小説が巨大なジャンルに成長し、その中には合理的な決着に止まらず超自然の領域に踏み出すものも増えてきていた。

「ジャンプ」時期の1970年代前半には、ウィリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト』の出版(1971年5月)と、映画化(1973年12月)があった。新作ホラー長篇の出版はすさまじい勢いで増加しており、キングの『キャリー』が発表された1974年には実に89冊と、1946-1960年の15年間の74冊を上回る数がわずか1年間で出ている。出版点数の増加に伴い、作品の様式もいっそう多様さを増している。超自然系ロマンス小説では、モダンホラー・ブーム沈静化以降に伸張したパラノーマル・ロマンスに先駆けて人外の存在との恋愛を描いた作品すら、すでに見受けられるほどだ(たとえば、Louisa Bronte"Lord Satan",1972)等)。キング以降のモダンホラーに直接つながっていく作品様式は、キングの登場までにはほぼ確立されていたと見て、差し支えないように思う。キングの登場が、モダンホラーをより大きなものに押し広げたことは間違いないのだが、彼もまた、それ以前からのホラー・ジャンルのより大きなうねりに支えられていたと考えるべきだろう。

 ところが、こうしたキング登場以前のモダンホラーの動向は、日本ではこれまでほとんどまともに紹介も研究もされてこなかった。キング以前のモダンホラー長篇のうち日本で翻訳出版されたものは50数冊ほどで、全体の1割弱といったところだろうか。選ばれている作家・作品に片寄りもあって、全貌を窺い知ることなどとてもできない。しかし、だからといって単純に日本のホラー翻訳者や研究家を責めたりするのは、筋違いだろう。なぜなら、英米本国でもキング登場以前のモダンホラーについては、まだ充分に評価が定まっていないからだ。急激に量が増えただけに玉石混淆なせいもあるが、あちらのホラー小説史研究でも言及される作品はごく限られており、多くの作品はリプリントもされず忘れ去られた状況にある。

 だが、こうした状況に近年、変化の兆しが見えてきている。若いころにこうした作品を読んできたファンたちが埋もれた作品を発掘紹介する個人サイトを立ち上げたり、英国ホラーを中心にファン同士が語り合うフォーラムサイト"Vault Of Evil: Brit Horror Pulp Plus!"が生まれたりして、徐々に情報がネット上に集積・流通され始めている。さらには、以前にこのブログでも紹介したヴァランコート・ブックスランブルハウスのように、埋もれたホラーの復刻出版に乗り出す小出版社も複数現れている。

 このブログでも今後、なかなか邦訳されそうにない作品を中心に未訳の作品を順次紹介し、キング以前のモダンホラーの姿を探っていこうと考えている。いつものことながら不定期な超スローペースになるだろうから、どうか気長にお付き合いください。

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2015/09/30

文庫版『残穢』解説拾遺

 twitterではすでにお知らせしたが、7月末に発売された小野不由美『残穢』文庫版[Amazon]の巻末解説を書かせていただいた。

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 文庫本解説の依頼を受けたのはこれが初めてで、正直なところ「これでいいのだろうか?」と戸惑いながら書いた。普段はエゴサーチなんてほとんどやらないのだけど、今度ばかりはどう受けとめられているのか気になってしまい、発売後しばらくネット上の評判をずっと見ていた。幸いにもまずまず好評をいただいているようで、ほっと胸をなで下ろしている。

 一方で、こちらが予期せぬ反応もあって、それがまた、なかなかおもしろかった。そのずれについて、少しお話ししてみよう。

 何しろ初めての経験だから、まずはこちらから担当編集者氏に「特に気をつけるべき点はありますか?」と率直に尋ねてみた。すると、「枚数は最大16枚程度、短くても構わない」ということと、「ネタバレは厳禁」の2つだけ。ほかには何ら制約はなく、自由に書いてくださいという返答であった。

 それなりの枚数がもらえたので「これなら本格的な『残穢』論が書けるかも?」とも思ったのだが、すぐあきらめることになった。『残穢』の魅力は精緻に組み上げられた語りの仕掛けにあり、それらを具体的に解析していかないことには正面から論じることができない。ネタバレを禁じられては、手も足も出せないのである。さて、どうしたものか?――呻吟している私を見て、妻はあっさりこう言い放った。

「そら文庫解説なんやから、この本がどういうおもしろさを持っているかを訴えてやね、読者が『この本、買おう!』という気になればええんでしょ?」

 ごもっとも。いま求められているのは、本格的な評論などではない。いうなれば、お化け屋敷の呼び込みのようなものなのだ。心を入れ替え、その線で構想を練り直した。

 想定読者層は、怪談ファンでも小野不由美ファンでもない。映画化のニュースで『残穢』について知ったり、書店で平積みを見掛けたりして、店頭でふとこの本を手に取るような人たち。そんな人たちが店頭でさっと通読でき、これがどういう成り立ちの本で、どういう怖さが楽しめるのかがすんなり理解できるような長さと密度の文章。まずそれを絶対的な条件とする。そうすると、枚数制限は16枚以内だが、理想はせいぜい10枚程度なのではないか。作品誕生に至る経緯や背景の説明はきっちりやるとしても、『残穢』そのものに触れないで進めるのは見開き2ページ程度が限度だろう。私のことなどまったく知らない読者の方が多いはずだから、いわゆる「自分語り」はいっさいやらない――そんな調子で、事前にルールを定めていった。

 かんじんの「『残穢』の怖さ」とはどういうものなのか。これについては、第26回山本周五郎賞の選考委員諸氏が各々の読書体験を生々しく端的に語っていたので、そのまま引用させていただく形で導入部を拵えていき、さらにそれらをまとめ直しつつ強調するフレーズを付け加えた。

「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」

 ここまでは不思議なほどすんなりと書けて、なんだかほっとした気持になった。これで解説の核ができた。この先どのように原稿が展開していこうとも、この核さえ見失わなければ、ちゃんとまとめあげられるだろう。そういう確信が持てたからだ。また、このフレーズは、編集部にも思いのほか気に入ってもらえたようで、文庫の帯や『残穢』特設サイトでの宣伝にまで使っていただいた。

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 繰り返しになるが、文庫版『残穢』解説はあくまで解説として書いたものであって、評論として書いたものではない。もしも評論的な読みどころがあるとしたら、怪異描写の写実性の追求という観点で現代怪談ブームの流れを総括したこと、その中での『残穢』の位置づけを語ったこと、その2つぐらいだろうか。だが、それらにしても厳密に論じようとしたらかなりの枚数を要し、文庫解説の枠をはみ出してしまうので、あくまで概説に止めている。

 著者小野不由美はホラーと怪談をかなり厳密に分けて意識しており、『残穢』は怪談として書いたものだと各種のインタビューで明言している。一方で小野不由美には、ホラーとしての代表作に『屍鬼』というとんでもない傑作がある。『屍鬼』は、前世紀末から今世紀初めにかけて、スティーヴン・キングに代表される海外モダンホラーのインパクトを現代日本の風土に移入しようとした作家たちの試み――すなわち、東雅夫氏がいうところの《ホラー・ジャパネスク》の一つの頂点を極めた作である。『残穢』は怪談文芸ブームの一つの極みというべき作だから、本来はこの二作を対照して論じるべきだろう。

 しかし、《ホラー・ジャパネスク》を概観するのに、いったい何枚を要するか? 想定した読者層が、そこまでホラーと怪談の違いに関心を抱くだろうか? 映画版『残穢』の方は、まず間違いなく《Jホラー映画》の1本として宣伝され、受容されるだろうから、いよいよ話がややこしくなる。やむを得ず、『残穢』と『屍鬼』および《ホラー・ジャパネスク》との関わりについて触れるのは断念し、現代怪談ブームとの関わりのみを語ることにした。

 さて、現代怪談ブームの流れを語るには、古来の伝統的な怪談との違いを明らかにせねばならない。そうすると江戸期には仏教・儒教的な道徳観の制約があり、近代に入ってからの心霊主義もまた、科学を装いながら宗教的モラルの束縛を受けていたことをきっちり語る必要がある。実際にそういう形で原稿を書き進めていたのだが、明治に入る手前でもう8枚に達してしまった。この調子ではおそらく4、5ページほども『残穢』の話が出てこなくなるし、そもそも制限枚数を大幅に超過する!――というわけで、書きかけの初稿は破棄し、大幅に省略して書き直した。

 そんな次第なので、本格的な評論を期待して文庫版『残穢』解説を読まれた場合には、ここが、あそこが……といろいろ気づかれる箇所が多いはずだと思う。言い訳めくけれど、あくまで解説として書かれたものとして、どうかご寛恕いただきたい。

『残穢』は怪談小説なのだから、それを手に取る読者は、怖がることを期待しているはずである。呼び込みに徹すると決めたからには、読者の「怖がるぞ」という気分を盛り立てなければならない。これは私が今まで書いてきた、批評や評論は本来、感情ではなく理性に働きかけるものだから、それを越えた工夫が必要なのだろう。

 だから文庫版『残穢』解説の導入部は、読者の「怖がるぞ」という気分に情緒的に訴えかけることを強く意識した書き方になっている。ところが、続きを書き進めているうちに、なんだかいつものように文章が理屈っぽくなってきてしまい、何かもう一押し、理性ではなく感情に訴えかけるべきだという気がしてきた。

『残穢』が放つ伝染する穢れの恐怖は、現代創作怪談の横綱格『リング』にも似通っている。だが、不幸の手紙ビデオ版とでもいうべき『リング』が現代風俗を取り込むことを強く意識しているのに対し、『残穢』は古来の民俗的概念に着目し近代日本史を過去へ遡っていく。それに『リング』はどこまでもよくできた作り話に徹しているが、『残穢』は姉妹編である『鬼談百景』[Amazon]を介して実話の領域にも踏み込んでいく。一見似ているようで、真逆なベクトルも持っているのだ。

 そこでまず、『残穢』の恐怖は過去志向だからこそ『リング』以上に本源的・普遍的であると説き、「誰も逃れられない」と強調した。さらに、もともとは書誌情報に絡めて解説中盤に配していた、『鬼談百景』を介した現実への侵犯に関する説明を末尾へ移動し、全文が導入部のまとめである「『残穢』の恐ろしさは、おとなしく本の中に止まってはくれない。 それは紙面から染み出してきて読者を絡めとり、 読み終わって本を閉じた後も脅かし続けるのだ」というフレーズに回帰していく構成とした。この構成によって、読者を絡めとって離さない『残穢』の恐怖を、論理ではなく感覚的に読者に訴えかけることができないかと考えたのだ。

 こうして書き上げた原稿が15枚程度。ぎりぎりまで削って14枚弱にした。目標の10枚は超過したが、これ以上削るとかえって読みづらくなるので許容範囲とした。それはよいとして、これまで自分が書いてきた文章ではあり得ないほど「煽ってるよなあ」というのが率直な感想であった。やりすぎなのではないか?……でも、呼び込みらしくはなったよな?……はたしてこれが正解なのか、ずいぶん逡巡した。迷った末に手を加えず編集部に送った結果が、ほぼそのまま本になったのである。

 読者諸氏にはおおむね好意的に受けとめていただいているようで、ほんとうにありがたい。意外にも、評論として評価してくださる方もいらっしゃるようだ。望外の喜びではあるけれど、反面、穴があったら入りたいような気持ちでもある。また、まったく予想もしていなかったような反応もあった。何と、『残穢』そのものだけでなく、私が書いた解説や帯のフレーズまでもが怖いという声が、方々からあがってきたのだ。

 私としては、読者があらかじめ抱いているはずの「怖がりたい」という気分を盛り立てようとは狙ったが、直接的に解説文や帯で恐怖を喚起しようとまでは思っていなかった。だから「ほんとにこれが怖いの?」というのが、偽らざる気持ちである。ただ一つ、なるほどと思わされたのが、『残穢』本文を読んだ後に解説を読んで、また怖くなってしまったという意見であった。『残穢』だけでも怖いのに、その怖い読後感が、私の煽り気味の解説でまた増幅されてしまったと。これはあり得る話だろう。

 ところが、それよりも「解説や帯を読んだだけで怖くなって、買えなかった」という反応の方が、なぜかずっと多いのである。私の直接の知人にまで、そんなことをいう者が二人も出てきた。これには参った。呼び込み失格ではないか……。どこでどう口コミが広がっていったのか、ついにはこんなツイートまで現れる始末。

 いやいや、私はそんなこと書いていませんって。そんな帯が付いている文庫版『残穢』は存在しない。はず――かくして、文庫版『残穢』解説と帯は、それ自体がある種の怪談になってしまった――。

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2015/06/30

『幽』23号と『堕天使のコード』

 怪談専門誌『幽』第23号[Amazon]が発売された。特集は「幽霊画大全」で、詳しい内容はこちら。今号は大幅な誌面刷新があって、私が書かせてもらっているブックレビューのページは、インタビューやコラム記事と「おばけずきフォーラム」というコーナーにまとめられ、一人で1ページを使わせてもらえるようになった。1ページ1冊でも複数冊まとめてでも、どちらでも差し支えないのだそうだ。

 また、ブックレビューについてはあらかじめジャンルの担当を割り振るということで、私は海外文学の担当となった。『幽』の書評はいつも、対象期間内の本から書評者が希望の本を選び、ダブりが生じた場合は編集部で調整して誰がどの本を書評するかを決めている。荒蝦夷の土方正志さんも海外文学担当のようだから、今後は彼の希望と調整することになるのだろう。

 今回、私が書評したのは、カナダの作家アンドリュー・パイパーの『堕天使のコード』(新潮文庫)[Amazon]である。これはまずダブりやしないだろうと思いつつ第1希望にしたら、やはりすんなり通った。というのは、どういうわけだか版元がホラーではなくミステリーであるかのように売り出していて、正統派の超自然ホラーであることがあまり浸透していないようだったからだ。邦題はまるで『ダ・ヴインチ・コード』の二番煎じスリラーみたいなのにされているが、原題は"The Demonologist"(『悪魔学者』)、ミルトンの『失楽園』を専門に研究しながら神も悪魔も信じていない大学教授が悪魔の奸計にはめられ、奪われた娘を取り返すために苦闘するという、堂々たるオカルト・ホラー長篇なのである。

 実は私は以前、いまはなき『SFオンライン』で同じ著者の処女長篇『ロスト・ガールズ』(早川書房)[Amazon]を書評したことがある。これは殺人事件の弁護を引き受けた弁護士が、犯行現場と目される湖で人を誘い溺れさせる伝説の女怪に惑わされていく、法定サスペンス+ホラー的な作だった。悪夢や幻覚、不吉な偶然の一致といった間接的な怪異描写を積み重ねて超自然的な力の実在を徐々に体感させるという渋い手法を、新人らしからぬ堂に入った手際で駆使していているのに感心させられた反面、ストーリー展開がやや単調で冗長に感じられたのと、主人公の弁護士が敏腕を通り越してえげつない嫌な男だったので感情移入しづらいという難点もあった。

 長篇第6作だという『堕天使のコード』は、基本的な怪異醸成法は『ロスト・ガールズ』のそれを引き継ぎつつも、現実が幻想に侵され崩壊していく感覚はより激しさを増していた。そして、愛する娘を奪われた男という誰もが共感しやすい人物を主人公に据え、悪魔が彼を翻弄し二転三転していくストーリーは最後まで張り詰めた緊張感に満ちている。つまり、処女作のよかったところはよりよく伸ばして悪いところはきっちり改善している、まことに頼もしい力作だったのである。

 そんな力作なのに版元がなぜかミステリーであるかのように売り出すものだから、ネット上の感想をあちこち見ているとホラーファンの間ではさほど評判になっていないようだし、ミステリーだと勘違いして不満を表明している読者もいる始末。冗談じゃないよ! というわけで応援の書評を書かせていただいた。本ブログを読んでくださっているような方であれば、決して読んで損した気分にはならないはずなので、ぜひご一読を。あ、もちろん『幽』もよろしくお願いしますね。

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2015/06/11

ブラックバーン・リバイバル『獅子の顔』"The Face of the Lion"

 ジョン・ブラックバーンに新たなリバイバルの波が来ている。といっても、アメリカでの話なのだが……。ヴァージニア州リッチモンドに、ゴシック小説やホラー、ミステリのリプリントを専門にしているヴァランコート・ブックス(Valancourt Books)という小出版社があって、2013年からジョン・ブラックバーンの小説を復刻し始めており、現在、なんと15作にも達しているのだ。ブラックバーンが生前に発表した長篇はぜんぶで28作なので、半分を超えている。

 この他、イギリスのミステリ専門リプリント出版社であるオスタラ・パブリシング(Ostara Publishing)も2010年に『リマから来た男』を復刻している[Amazon][kindle]ので、現在、新刊で入手できるブラックバーンの著作は計16冊になる。2006年から2009年にかけて論創社がブラックバーンの長篇を3冊邦訳し、本ブログでもブラックバーンを繰り返し取り上げたことがあったが、あのころには彼の著作は英米でも軒並み絶版品切れで、高い古書を買うしかない状態だった。実力からすれば再評価されて当然なのだが、まるで夢を見ているかのような気分にさせられる。

 もっとも、その夢は甘いばかりではなかったりする。だって、自分が大枚叩いて買った本まで安価で復刻されてしまうんだもの! さんざん悩んで「これぐらいなら手を出せる」と決断した"Devil Daddy"(1972)[Amazon]がほぼ3分の1の2000円そこそことか!? ――などと見苦しく愚痴っていても仕方ないので、ヴァランコート・ブックスの復刻から1冊を選んでご紹介しよう。1976年発表の『獅子の顔』"The Face of the Lion"である[Amazon][kindle]。

 本書は、創元推理文庫の邦訳により日本でもおなじみである、イギリスに帰化したユダヤ人細菌学者マーカス・レヴィン卿と、その妻で元KGBエージョントのタニアを主人公にしたシリーズの1冊に属するが、彼らの友人である英国諜報部のカーク将軍は登場していない。レヴィン卿夫妻が主役なので当然ながら今回も危険な微生物が絡んでおり、感染者を醜い顔貌に変じさせ凶暴化させる謎の疫病に、二人は立ち向かうことになる。書名の『獅子の顔』はその疫病の症状にちなんだもの。感染者を獅子顔にする伝染病というとハンセン病が有名だが、顔に結節が生じれば獅子顔になるわけで、ハンセン病のみの症状ではないのだそうだ。ヴァランコート・ブックス版ではカバーアートがライオンそのもので、なんだか可愛らしい(※amazonの画像リンクです)。



 しかし、初版のカバーはこのようにもっと謎めいて恐ろしげなものだった(※これもamazonの画像リンク)。


 物語は、スコットランドのある地方領主がどんどん強大になっていて、独立運動の果てに私設軍隊まで作り、どうやら核兵器を所有しているらしいという大ネタから始まる。謀反と疫病とはすごい取り合わせ、さすがブラックバーン! と期待してしまうところだが、残念ながら止めどなく広がる疫禍によって謀反の方は序盤で自然消滅してしまい、謎の疫病がどこから生じたのかと、感染拡大をいかに食い止めるかに焦点は絞られていく。

 処女作『刈りたての干草の香り』(1958)[Amazon]を強烈に彩っていた阿鼻叫喚のモンスター・パニック的描写も本書では抑制されており、ブラックバーンにしてはずいぶんまっとうな小説となっていた。諜報サスペンスとSFとホラーをない交ぜにしたような、独特の作品世界を好む読者には、ちょっと物足りなく感じられるかも知れない。それでも、彼らしいシニカルなユーモアは健在で、破滅的な災厄こそ回避されるものの、ほろ苦い余韻が残る皮肉な結末は味わい深い。

 なお、本書にはジョン・ブラックバーンの熱心な愛好家であるグレッグ・バー氏(と、読んでいいのかな? 綴りは"Greg Gbur"なんだけど)による巻頭解説が付されており、彼は本書をリビングデッド系ゾンビ小説の先駆の一つと位置づけている。彼によれば、小説において増殖する生ける屍の群れを魔術ではなく疫禍と結びつけたのはH・G・ウェルズの『世界はこうなる』(1933)[Amazon]を嚆矢とするという。しかし、本格的にリビングデッド系ゾンビ小説が書かれるようになったのは、その後ジョージ・ロメロらによる映画のブームを受けてずっと後の、スプラッタパンク系ホラー・アンソロジー『死霊たちの宴』(1989)[Amazon]以降のことであって、ブラックバーンの『獅子の顔』はそれらを繋ぐミッシングリンク的な作品であるとのこと。熱心なゾンビ・ファンには異論があるかも知れないが、なかなかおもしろい論考だった。

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2015/06/08

ホラー専門誌『ナイトランド』復活

 もうご存知の方も多いだろうが、諸般の事情で休刊中だったホラー小説専門誌『ナイトランド』が、版元を《トーキングヘッズ叢書》のアトリエ・サードに変えて活動を再開している。『ナイトランド・クォータリー』と誌名を改めた新創刊号は吸血鬼特集で、詳しい内容はこちら

 以前と較べると、時事的な記事や雑文的コラムが廃されていて、特集に特化した作りになっている。小説作品の中では、夜間高校を舞台に吸血鬼になった少女と奇病で死に行く少女とのせつない友情を描いた、セシル・カステルッチ「エイミーとジーナ」がずば抜けて良かった。解説によると作者は本来ホラーではなくヤングアダルト小説の作家であり、エレン・ダトロウとテリ・ウィンドリングが編んだ吸血鬼アンソロジーに招かれて書いたものとのことで、なるほどと思わされた。

 惜しくも刊行には至らなかった《ナイトランド叢書》も、企画を改めて再出発という告知が掲載されていた。今夏から刊行が始まる第1期のラインナップは以下のとおり。

ロバート・E・ハワード『失われた者たちの谷 ハワード怪奇傑作集』(中村融編訳)
ブラム・ストーカー『七つ星の宝石』(森沢くみこ訳)
アリス&クロード・アスキュー『心霊探偵エイルマー・ヴァンス』(田村美佐子訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『<グレン・キャリグ号>のボート』(野村芳夫訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(荒俣宏訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『幽霊海賊』(夏来健次訳)

 古典寄りになるらしいことは風の便りに聞いていたが、ハワードの傑作集以外は総入れ替えになっている。とはいえ、なかなかの壮観である。まるで懐かしの《ドラキュラ叢書》(国書刊行会、1976~77。詳しくはこちら)が帰ってきたかのようではないか。

 ホジスンのボーダーランド三部作がついに全訳というのも嬉しいが、何よりも驚かされたのは、このブログでも以前にご紹介した『エイルマー・ヴァンス』連作が予定に入っていることだ。ハワードもホジスンもストーカーも、ホラー文学史で確固たる評価を得ている大作家である。一方でアスキュー夫妻はこれきりしかホラーを書いていないらしく、『エイルマー・ヴァンス』もホラー史を論じた文献で触れられることなんて、まずない。まさかこんなマイナー作が邦訳される日が来ようとは。

 知名度が低いのに邦訳されるということはつまり、純粋に作品のおもしろさのみによって選ばれたということだ。いや、実際、それだけのことはある良作なんですよ、ほんと。日本の読者にどのように受け入れられるか、私は今から楽しみでしようがない。一つだけ気になるのは、仮題とはいえ原題の"Ghost-seer"を訳さずに「心霊探偵」に変更していること。以前に書いたように、内容的に直訳の「見霊者」がぴったりなのである。一般読者には耳慣れない「見霊者」より、「心霊探偵」の方が売り出しやすいんだろうけどなあ。

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2014/12/07

『セメント怪談稼業』と「第三の実話」

 怪談専門誌『幽』編集部より、松村進吉『セメント怪談稼業』(角川書店)[Amazon][kindle]を、ご恵贈いただきました。ありがとうございました。

 本書は、実話中心の怪談作家として活躍している著者の日常と、彼が収集した怪談が妖しく交錯する様を描いた全9篇を収録している。うち4篇は『幽』に掲載されたものだが、5篇は新たな書き下ろしである。皆さんご存知のとおり、私はどちらかというとフィクションとしての怪談に強い関心があって、実話の方には疎いのだけど、この本にはいろいろと考えされられるところが多かった。

 本書の著者である松村進吉は、幽霊を恐れる「ヘタレ怪談作家」を自称しているけれど、心底臆病で怠け者の私から見ると、ずいぶんたくましい。怪談作家なんだから当たり前という意見もあろうが、昼は肉体を酷使する建設現場で働き、夜も精力的に怪談を集め売り物になる原稿に仕上げていくという生活は、相当にきついはずである。しかも本書では、怪談よりもそれを提供してくれている人間の方が危険そうなケースも紹介されていて、よくやるよなあと感じ入ってしまった。

 とはいえ、それはただ強面なたくましさでは決してなくて、度外れた誠実さこそがその源泉であるように見える。たとえば、愛猫家としての心情を綴った「猫どもの件」。捨て猫を見るに見かねて引き取り続けた結果が、何と10匹。それだけで充分に立派だと思うのだが、それでもなお著者は得心できず、「それ以外の猫を見捨てている俺は、偽善者ではないのか?」と懊悩するのである。何もそこまで自分を追いつめなくても……。「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」なんて懐かしいフレーズを思い出すではないか。ヘタレどころか、まるでハードボイルドだ。

 そうした著者のハードボイルドな資質が怪談作家――というより、一個の表現者としてとことん発揮されてしまったというべきなのが、本書に書き下ろされた「第三の実話の件」である。ここで彼は、平山夢明が監修する怪談本シリーズに参加することになった際に、平山から「怪談というモノに対する新たな概念を作れ」などと恐ろしい難題を突きつけられ、それに真っ向勝負を挑んだ顛末を赤裸々に告白している。

 著者によれば、現在流通している実話の怪談本には、2つの種類があるという。1つは怪談の本流である、幽霊などの超自然系の実話。もう1つは、本流からは外れており怪談に含むかどうか議論もあるが、サイコ系の猟奇犯罪を扱った実話。これらに続く第三の怪談実話とは、いったい何か? 悩みに悩んだ著者は、恐怖の原因が何かではなく恐怖そのものを見つめることで、これまで取材過程で「使えない」とボツにしてきた体験談群に可能性を見出す。心霊現象ではなく病や薬物から体験者の心に生じた妄想や幻覚の怖さを、そのまま提示しようというのである。「幽霊の話が読みたかったのに」と読者に反発されるのではないかと危惧しつつも、著者はこれこそが怪談実話の新たな可能性だと確信し、あえて世に問うた。そして――危惧したとおりに、読者たちからは「幽霊の話が読みたかったのに」との酷評を浴びた……。

 前述したように私は実話系怪談の動向には疎いため、こんな騒ぎが起きていたとはまったく知らなかった。くだんの怪談本の書名は伏せられていたのだけど、文中の情報から2年前に刊行された黒木あるじとの共著『FKBふたり怪談』(竹書房文庫)[Amazon]だろうと察せられる。ネット上での評判を見てみると、確かにネット書店でのユーザーレビューは否定的なものばかりのようだし、読者書評サイトの感想もほとんどは不満か戸惑いという反応のようだ。やけどすると解っていて火中の栗を拾ってみせた著者の表現者としての覚悟は、凄絶というほかない。

 しかし、こうした著者の危惧と読者の不評の両方を読んで、私はちょっと考え込んでしまった。というのは、「第三の実話の件」の中でこの新たな怪談実話のサンプルとして披露されていた話が、もしも創作の怪談集に入っていたのなら、特に問題視されないようなものだと思われたからだ。実話と創作の怪談の間には、ほんとうにあった話と作り事の話というだけに止まらない、ジャンル意識の違いがあるのだろうか?

 ジャンルとは要するに特定の形式・様式なのであるが、近代の娯楽小説では(A)純粋に作中で扱う事物にこだわるものと、(B)そこから生じる感興にこだわるものに大別できるように思う。(A)の例として挙げられるのは、時代小説やウェスタンである。前者は中世から近世の日本、後者は開拓時代のアメリカ西部という時代と地理を描かなければ、内容がどうあろうとそのジャンルに属しているとは認められない。(B)の例として挙げられるのは、SFやミステリ、ホラーである。かつてはセンス・オブ・ワンダーという言葉がよく用いられたものだが、SFに求められるのは科学的な思考から生まれる驚異の感覚であって、宇宙船や光線銃などの小道具だとか未来や宇宙といった舞台設定ではない。だから、魔法や幽霊などの超常現象を扱ったSFも少なからず存在する。ミステリも同様で、論理的な謎解きの興味が満たされれば、幽霊でも宇宙人でも何でも出てきて構わない。

 そして、ホラーに求められるのは超自然現象に遭遇したときに感じる種類の恐怖、すなわち超自然的恐怖であって、超自然現象そのものではない。ホラーから怪談ないしはゴースト・ストーリーへと範囲を絞った場合には、超自然現象を求める傾向がずっと強くなるが、それでも非超自然の狂気や幻覚を完全に排除してはいない。たとえば、レ・ファニュの代表作の1つである「緑茶」は、緑茶の飲み過ぎのせいで自分につきまとう猿の幻覚を見る話でしかないのに、怪談小説の古典的傑作として扱われている。「第三の実話の件」でサンプルとして掲載されていたのは、勤め先でリストラされた中年男性が、デジカメの連写機能で周囲の人々を撮影した画像に、彼らが人間でない何者かである証拠が写っているという妄想に取り憑かれていく物語である。超自然現象はまったくないのだが、この世のものではない何かを見てしまう超自然的な恐怖はよく描かれていて、いうなれば「緑茶」タイプの佳作だったのだ。

 こういう作品が嫌われたということは、同じ怪談でも実話系の読者は、創作系の読者と較べると超自然現象そのものに強くこだわるということだろうか? 騒動の発端となった『FKBふたり怪談』はどうなのか気になってしまい、取り寄せて読んでみた。もとよりボーダーラインの作品群なので意見は分かれようが、この本に松村進吉が書いている「第三の実話」12篇のうち少なくとも5篇は、創作の怪談集なら問題なく通用するのではないかと私は感じた。

 地底人の侵略に気づいてしまった女性に日記を託されてしまう「日記」と、狐憑きの女性と結婚した男性の回想談である「油揚」、霊感を持つという少女が霊能者ではなく使い魔になりたがる「化身」の3篇は、怪異を直接体験している者が何を見ていたか断言できる証拠が作中にはないため、合理的な解釈も超自然的な解釈も可能である。特に「日記」は、落ち着かない怖さが実にいやな感じを出していた。抗不安剤依存が圧倒的スケールの幻覚を呼ぶ「形而」は、数学の授業で受けた幾何の説明から何となく幾何学図形を恐れるようになっていくという前振りが非常にうまく効いていて、これまた「緑茶」タイプの良作である。「爪音」もシンナー中毒による幻覚の話だが、二人の人間が幻覚を共有してしまっているようにも感じられる一瞬があって、そこがたまらなく怖い。おそらく、このブログを継続して読んでくださっているような奇特な方なら、「日記」「形而」「爪音」の3篇は、怪異の真相が超自然現象であるか否かとは関わりなく、優れた怪談として楽しめることだろう。

 残り7篇は、明確に妄想もしくは幻覚と断じられているのを度外視しても、怪談と呼ぶには日常からの飛躍の程度がやや足りないように、私には感じられた。もっと砕いて言えば、充分に怪しくはないと感じられたのだ。とはいえ、怪談かどうかなんて気にせず単に「怖い話」と割り切って読めば、どれも楽しめる仕上がりではある。また、半数ぐらいはいくぶんかニュアンスを変えるだけで、超自然の怪談に改変できそうにも思われた。でも、それは「実話」と謳っている以上は、決して越えてはならない一線なのだろう。

 これら12篇に対するネット上の読者の拒否反応は、私が目にした限りでは「怪談でないものが多い」あるいは「怪談でないものが混じっている」とかといった部分的な否定ではなく、すべてを「怪談ではない」と否定しているように見える。明確に幻覚・妄想として描かれている9篇だけではなく、どちらとも断言できない3篇までもが否定されているのだから、創作怪談の基準からするとずいぶんきびしいといえよう。やはり同じ怪談といっても実話本の読者は、創作怪談の読者よりも超自然現象そのものに強くこだわる傾向が間違いなくあるようだ。そんなに実話の読者に嫌われるのなら、いっそ完全に小説に仕立ててしまえば……なんて身も蓋もないことを言ってはいけませんね(笑)。著者が創作の怪談でも優れた作品を発表しているだけに、創作派読者の私はつい、そんな余計なことまで考えてしまう。

 はたして松村進吉が送り出した「第三の実話」は、当初の目論みどおり、怪談実話の革新となっていくのだろうか? 怪談実話に疎い私には、推測するのも難しい。というよりも、その資格がないだろう。ただ、結局問われるのは、怪談実話という文芸ジャンルの核がいったいどこにあるのかと、型破りであっても「第三の実話」がその核を突いていっているのか、この2つなのではないかとは思う。今、読者と作者の双方に、そういう問い掛けが発せられている――そんな気がした。

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2014/08/31

色即是空というやつか

 形あるものは、すべていつか朽ちていく。いまさらながら、それを実感したという話。

 あちらではそこそこメジャーなのに、なぜか日本ではほとんど知られていない、ピーター・サクソン(Peter Saxon)のオカルト探偵団物《ガーディアンズ》シリーズ。その第2巻にあたる『Through the Dark Curtain』(1968,Lancer)を読み始めたところ、パキッと嫌な感触が……。そう、糊の経年劣化で背が割れてしまったのである。読むほどにページが外れていき、読了時にはこのありさま。

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ま、おかげでこんな写真も撮れますけどね。

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なかなかイカすカバーアートだが、実際は作中にこのような場面はなかったりする。まあ全体の雰囲気はこんな感じかな。《ガーディアンズ》シリーズはぜんぶで6作あるので、すべて読み終えてからまとめて本ブログでご紹介するつもりにしている。まだ3冊しか読めていないので、たぶん来年になってしまうだろう。とりあえず、手持ちの全6作の表紙だけお披露目しておこう。

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 めざとい方は、上で『Through the Dark Curtain』を第2作と紹介しているのに、『Dark Ways to Death』のカバーに「♯2」とあるのに気づかれただろう。ところが実は、『Dark Ways to Death』はシリーズ第1巻なのである。《ガーディアンズ》シリーズは短い期間で複数の出版社から新作が出たりリプリントされたせいで、ちと書誌がこみ入っている。その事情も含め、またあらためてご紹介したい。

 それにしても、この『Through the Dark Curtain』、古書店の状態説明は「Very Good」だったし、手に取った感じはまだ堅牢そうだったんだけどなあ。46年も経ったマスマーケット・ペーパーバックだから、仕方ないのか。などと嘆いている最中に、また海外から取り寄せたペーパーバックが届いた。

 マイケル・ブランドンが1944年に発表したブードゥー・ホラーの長篇『Nonce』。そのリプリント版で、Avon Booksから1953年に出たものである。

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 これも「Very Good」で、値段もそれなりだったのだが、ページを開くとこんなことに……。

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 読んだらぜったいバラけるよねえ。うーむ、「金を惜しんではならぬ」という、古本の神様の思し召しなのか!?

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2014/07/13

『風神の邪教』とブライアン・ラムレイのこと

 ブライアン・ラムレイは、私にとって特別なホラー作家である。あくまで「特別」であって、「好き」ではない。仮に誰かに「好きなホラー作家は?」と問われたとして、「ブライアン・ラムレイです!」と胸を張って答えるのは、なかなか勇気が要ることのように思う。とはいえ、決して嫌いではない。そもそも、ラムレイのことが嫌いなホラー・ファンなんて、いるのだろうか? では「普通」かといえば、どう考えたって普通ではない。やはり、特別なホラー作家と呼ぶしかないのである。

 私がラムレイに対し特別な思いを抱くようになったのは、もちろん彼のホラー作家としての個性が第一の要因なのだが、もう一つ、ある個人的な体験が背景にある。1991年のことだ。数日間の香港旅行を楽しんでいた私と妻は、香港島の繁華街でとある新刊書店を覗いた。どこの何という書店だったか、正確には覚えていない。確か中規模ワンフロアの総合書店で、たまたま見つけたのではなくガイドブックに載っていた店だったと思う。一通りの分野の本は置いているものの、決して品揃えは多くない、ごく普通の書店である。その棚に何と、ブライアン・ラムレイのクトゥルー長篇『The Burrowers Beneath』の初版本(DAW Books,1974)[Amazon]が、平然と並んでいたのだ!!

Burrowers


 17年も前のペーパーバックが、どうしてこんな店に? 私は我が目と正気を疑いつつも、狂喜してこの掘り出し物を購った。

 古書店めぐりを趣味にしている者ならば誰しも、思いがけないところで掘り出し物に出くわし、まるでその本が自分を待っていたかのような、あるいはその本に自分が呼ばれたかのような錯覚を抱いてしまったことが、一度や二度はあるだろう。私も何度かそういう経験があるが、これほど鮮烈な出会いはほかにない。そして、このDAW Books版『The Burrowers Beneath』こそが、私が生まれて初めて一冊まるごと通読した洋書となった。

 しかも、その内容たるや! 後に『地を穿つ魔』(創元推理文庫)[Amazon]として邦訳されたのでご存知の方も多いと思うが、新登場の邪神クトゥーニアンの眷属は、地を駆け巡って暴れ回るわ卵を産んで繁殖するわで、もうほとんど地底怪獣。人間たちは邪神に対抗するためにウィルマース財団なる組織を立ち上げ、旧神の印が入った石を吸血鬼に対する十字架のように用い、邪神を狩っていく。ラヴクラフトの陰鬱さなど微塵もない、ノリノリの冒険活劇なのである。水に弱いというバルゴンみたいな弱点のあるクトゥーニアンから逃れて海を渡ったけど、海底の地層を掘って追っかけてきましたとか(当たり前だよねえ)、絶大な効果がある一方で数が限られている旧神の印の石をどうするかという問題が起き、小さな欠片でも効くからそれを埋め込んだイミテーションを量産すればOK!だとか、つっこみどころ満載の脳天気な展開の連続に、私はクラクラとめまいを催したのだった。

 念のために強調しておくけれど、私は決してラムレイを貶そうとしているのではない。私は私なりに『The Burrowers Beneath』を大いに楽しんだのだし、この体験がその後、続けてホラーを原書で読んでいくきっかけになったのだから。

 かつて東雅夫がラムレイのことを加山雄三の若大将に引っかけて「クトゥルーのバカ大将」と書いたことがあったが(『幻想文学』第6号所収「ラヴクラフト症候群必携」)、これほどラムレイの作風を的確に言い表した言葉もないだろう。確かに、彼の脳天気すぎる作風は、バカといわれても仕方ないレベルである。でも、彼の若大将のような底抜けの無邪気さには、同じホラー・ファンとしてほほえましい共感を抱かずにはいられないのだ。ラムレイは1946年生まれだから、『地を穿つ魔』の発表当時は38歳。この年齢になってこれほどまでに子供のような純真さを持てているとは、驚嘆すべきではないか。いや、それどころかラムレイは、その後もこの天真爛漫さを保ち続けているのである――。

『地を穿つ魔』から始まる〈タイタス・クロウ・サーガ〉はその後も邦訳が続き、先だって第四弾『風神の邪教』(創元推理文庫)[Amazon]が刊行された。今回の敵側ボスキャラは風神イタカ。このイタカにウィルマース財団のメンバー数名が掠われて極寒の異星に飛ばされ、イタカに反旗を翻した彼の娘が率いる集団と、イタカ信者の軍団との抗争に巻き込まれるという、ホラーというよりは異世界冒険ファンタジーであった。

 原書の発表は1978年。スティーヴン・キングの登場によるモダンホラー・ブームがぐんぐん盛り上がったころであるが、ラムレイはそんなことはまったく意識せず、独自の作風を貫いている。風神イタカは、小型飛行機を片手でつまむ巨体でまたもや怪獣映画テイストを満喫させてくれる一方、寂しがりやの助平オヤジという、意表を突く一面も見せる。さらに、旧神の印の石がカイロとして使えることが判明するわ、主人公はイタカの娘と恋仲になってしまうわと、呆れるほどに大胆不敵な趣向が次と次と繰り出され、圧倒的な敵の軍勢を斥ける最後の秘策が――ああっ、いいの? そんな罰当たりなことして!?

 異世界での恋愛を絡めた冒険ファンタジー仕立てになっていることについて、エドガー・ライス・バロウズとの類似を指摘する声もあるようだけど、いや、これはエイブラム・メリットでしょう。バロウズが描く異世界は、トンデモであれ必ず疑似科学的な設定が細かく凝らされているのに対し、『風神の邪教』はまったくの超自然。そして何より、ヒロインが超常的な能力を持ち異世界に君臨していることが、バロウズよりも断然、「メリッテイル」とも称されたエイブラム・メリットの独特な異世界ファンタジーを思わせる。おそらく『風神の邪教』は、ラムレイのメリッテイルへの愛着を、クトゥルー神話に託して表現したものなのだろう(メリット愛好家の皆さんは、どうか石を投げないでくださいね)。

 すぐれた超自然小説とはとてもいえないのだけど、ラムレイの小説には、同じファンとしてほほえんで肯かずにはいられない、ジャンルへのピュアな愛が溢れている。そんなラムレイの作品が継続して訳され、読者に受け入れられてる状況に、日本もまだまだ捨てたもんじゃないよねと私は思うのである。

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2014/07/06

『幽』第21号あれこれ

 怪談専門誌『幽』第21号(KADOKAWA)[Amazon]が発売された。

 私は今回、いつもの書評のほかに、創刊10周年企画「怪談ベストブック2004-2014」にも参加させていただいた。この10年の怪談本のベスト3冊を選ぶというものである。いまはなき『幻想文学』でも「幻想ベストブック1993-2000」に参加したことがあって、「7年で3冊って……」と途方に暮れたことが思い起こされる。その時は国産ホラー小説ブームだったので、割り切ってその中から倉阪鬼一郎の『赤い額縁』、小野不由美の『屍鬼』、福澤徹三の『幻日』を、ブームを象徴する3冊として選んだのだった。

「今回は幻想本よりは範囲が狭い怪談本だし、期間が長くても幻想ベストブックよりは楽かも」などと高をくくっていたら、とんでもない。編集部からPDFファイルで送られてきた参考リストは、全24ページにざっと700~800冊ぐらい?が挙げられており、いまさらながら怪談ブームの広がりを思い知らされるはめになった。悩みに悩んだ結果、対象を国産の創作怪談に絞り込んで選んだのが下記の3冊。

(1)小野不由美『残穢』(新潮社)[Amazon]
(2)稲生平太郎『アムネジア』(角川書店)[Amazon]
(3)大濱普美子『たけこのぞう』(国書刊行会)[Amazon]

 怪談の本流ど真ん中の傑作である『残穢』はどうしたって外せないとして、残り2冊は外の方へとずらしていき、そのずれたところから怪談文芸の本質を照らし出そうというセレクションである。いずれも自分が書評した本なのがつまらない気がするものの、(2)や(3)はあまり選ぶ人は多くないだろうから、けっこう個性は出せたのではないかと思っていたのだが――ものの見事に狙いは大はずれ。参加者名50音順のトップバッターである朝宮運河さんのセレクションと(1)(2)が被り、後から出てくる私は何だか二番煎じな印象に(笑)。

 それにしても、ホラー・ブームでは『屍鬼』、怪談ブームでは『残穢』と、寡作なのに毎度決定打的な長篇を書いてしまう小野不由美は本当に凄いと思う。そう、ホラー・ブームは怪談ブームに移行してしまった。「幻想ベストブック1993-2000」ではホラー・ブームの行く末を占う手がかりになりそうな新人作家として福澤徹三を挙げたのだけど、結局は彼もホラーというよりは怪談の領域で才能を伸ばすことになった。日本はやはり怪談の国なのである。これは国産小説よりも海外作品の邦訳に顕著で、ゴースト・ストーリーの比重が大きい古典怪奇短篇の邦訳が盛んな一方、モダンホラーはごく一部の人気作家を除けば、ほぼクトゥルーか吸血鬼かゾンビしか邦訳されなくなってしまった。

 実は今回、書評で取り上げたローレン・ビュークス『シャイニング・ガール』(ハヤカワ文庫NV)[Amazon][kindle]は、こうした傾向の嬉しい例外というべき一冊である。これはハヤカワ文庫NVで出され「タイムトラベル・サイコサスペンス」と宣伝されているジャンルミックス小説だが、作品のメインテーマを支えているのは超自然的な怪異であって、実質はホラーというべきものなのだ。エレン・ダトロウ編『The Best Horror of the Year Vol.6』(Night Shade Books)[Amazon][kindle]の2013年度ホラー出版総括でも、この本は"Notable Novels"の一冊として挙げられている。

 これからは、この本のようにホラーとは謳わずに邦訳出版されるホラー小説が、増えていくのではないだろうか。ホラー・ブームが来る以前、国産のホラー小説はミステリやSFや純文学の中に埋もれているものを、掘り起こさねばならなかった。海外ホラーでも、またそういう作業が必要になっていくのかもしれない。

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