カテゴリー「モダンホラー」の記事

2015/11/23

モダンホラーの起源を求めて

「モダンホラー」という言葉は、どうやら英米ではあまり使われなくなってきているらしい。たとえば英語版Wikipediaには、そもそもmodern horrorという項目が存在しない。書籍の題名や宣伝文句にも、最近はほとんど使われていない。かつてのブームを差す意味ではまだ使われているけれど、今現在のホラーは単に「ホラー」で、わざわざ「モダンホラー」といわなくなってきた。ジャンルを差す言葉としては、もはや死語になりつつあるのではないか。

「モダンホラー」という言葉は、そもそもが「新しいよ」と売り出すためだけに作られたような言葉で、実態ははっきりしない。スティーヴン・キングが『キャリー』(1974)でメジャーデビューしてからもう40年以上経つのだから、それを一括りにジャンルとして語るのも難しかろう。単に「ホラー」でよいではないか、となっても何の不思議もないわけだ。なのに、私はブログでもツイッターでも「モダンホラー」という言葉を使い続けている。このブログには、わざわざ「モダンホラー」タグを設けた。使われなくなってきたからこそ、ますますこだわりが生じてしまったのである。

 そのこだわりの根源は、十代の終わりごろ、里程標的なモダンホラー・アンソロジー『闇の展覧会』(1980)に接したときの、ときめきにあるように思う。これは書き下ろし競作集にもかかわらず収録作が異様に充実していて、中でもデニス・エチスン「遅番」とT・E・D・クライン「王国の子ら」の二作に衝撃を受けた。それまでに平井呈一の『怪奇小説傑作集』を中軸とした古典怪奇には馴染んでいたのだが、それらはやはりどこか懐古的なおもしろさでもあった。ところが「遅番」や「王国の子ら」を読んで、いきなり自分のすぐそばに怪異が迫ってきたような驚きを感じたのだ。厳密にいえば、ブラックウッドにせよラヴクラフトにせよ、当時の「モダン」ホラーではないかという話にもなるのだけど、ともかく前述のような個人的こだわりを、今一度掘り下げてみたいという気持がある。だから、いまさら「モダンホラー」なのである。

 先述したとおり、「モダンホラー」というのは実態が曖昧ではっきりしない言葉である。漠然と、「現代のホラー」というだけのことだというのが、ほんとうのところだろう。ただ、その使われ方を見ていると、一つの指標となり得るのはやはりスティーヴン・キングの存在で、彼がデビューして以降のホラーを指しているケースがもっとも多いようだ。一方で、キングが直接的に影響を受けているようなホラーも考慮する場合もあって、リチャード・マシスンやらロバート・ブロックやらの1950年代あたりのホラーを含んで指す場合もある。第二次大戦前にまで遡ることは、さすがにないだろう。

 こうした期間の区切り方に関しては、いくら議論をしてみたところで、厳密な結論なんて得られはしないだろう。そこで視点を変えてみて、万人が認めるであろうスティーヴン・キングの登場によるモダンホラー・ブーム、これがいかにして起こったかを考えてみてはどうか。

 一つの指標となり得るのは、出版点数だろう。しかし、私の知る限りでは、年代別のホラー小説本出版点数を長期にわたって追っているような資料は存在しない。そこで参考までに、私が猟書のために作っている個人的なリストに基づいて、不完全ながら長篇のみに限り、第二次世界大戦後からキングがデビューする1974年までの新作出版動向を概観してみる。

 実はこのリストの元になっているのは、以前にもこのブログで紹介したことのある、ホラー作家/研究家ドン・ダマッサがホームページ"Critical Mass"で無償公開している書誌データベース"Annotated Checklist of Speculative Fiction"の「ホラー」編である。ホラーに関する書誌データベースは、これ以外にもいくつか充実したものがネット上に存在する。だが、ダマッサは各作品の概要と自分なりの評価を書き添えてくれているので、私はこのデータベースを基に作ったリストを、猟書の手掛かりにしているのである。

 さて、このリストで1946-1974年の間にアメリカとイギリスで発表されたホラー長篇を数えると、以下のようになる。

1946-1950 15冊
1951-1955 24冊
1956-1960 35冊
1961-1965 41冊
1966-1970 144冊
1971-1974 258冊

 惜しいことにダマッサのデータベースはそれなりに遺漏があるので、実際の刊行点数はこれよりいくらか多い。とはいえ、動向を大づかみに概観するには、充分役立つだろう。新作ホラー長篇の刊行はなだらかな増加ではなくて、おおよそ1950年代後半にホップ、1960年代後半にステップ、1970年代前半にジャンプ、という三段跳びのような動向になっていることが窺える。特に動きが激しい1966-1974年については、1年単位の動向も見てみよう。

1966,18冊
1967,18冊
1968,29冊
1969,30冊
1970,49冊

1971,50冊
1972,53冊
1973,69冊
1974,86冊

 

 第二次大戦後から1950年代にかけては、『ウィアード・テイルズ』に代表されるホラー系パルプマガジンが姿を消していったり、古典怪奇小説を支えていた作家世代がほぼリタイアしていく時期に当たる。一方で、SFはこのころ、万人向けのジャンル・フィクションとして著しく発展していっている。同時期の映画作品を見ても、戦前はゴシック風ホラーで一世を風靡したユニバーサル・プロがSF系の映画に鞍替えしていったり、ホラーがSFに取って代わられているという印象は強い。小説でも同様の傾向があったのではないだろうか。

 映画に関してこの状況が変わり出すのは1950年代後半以降で、イギリスのハマー・プロとアメリカのAIPのホラー路線が成功し、ゴシック風ホラー映画を再興するような動きが起きていく。さらに、パルプ・マガジンに替わって大衆小説提供の主役となったペーパーバック出版では、後に30年も続く人気アンソロジー・シリーズ"The Pan Book of Horror Stories"が1959年に始まっている。アーカム・ハウスがマニア向けのハードカバー版で発掘してきたラヴクラフトの諸作が、各社のペーパーバック版で普及し始めるのも、このころである。先述の1950年代後半の「ホップ」の時期には、ホラーならではの超自然の恐怖の魅力を再発見する気運が出始めていたと見て、間違いないだろう。

「ステップ」時期の1960年代後半には、アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』の出版(1967年3月)と、映画化(1968年6月)があった。この大ヒットの影響は非常に大きく、まったく関係ないようなホラー・ペーパーバックの惹句に『ローズマリーの赤ちゃん』が引き合いに出されているものも、よく見掛ける。以前にこのブログでも紹介した〈キティ・テルフェア・ゴシック・シリーズ〉のような、旧来のオカルト探偵物とは一線を画すキャラクター小説がホラー・ジャンルに次々と現れるようになったのも、このころからだ。また、女性向けのロマンス小説が巨大なジャンルに成長し、その中には合理的な決着に止まらず超自然の領域に踏み出すものも増えてきていた。

「ジャンプ」時期の1970年代前半には、ウィリアム・ピーター・ブラッディ『エクソシスト』の出版(1971年5月)と、映画化(1973年12月)があった。新作ホラー長篇の出版はすさまじい勢いで増加しており、キングの『キャリー』が発表された1974年には実に89冊と、1946-1960年の15年間の74冊を上回る数がわずか1年間で出ている。出版点数の増加に伴い、作品の様式もいっそう多様さを増している。超自然系ロマンス小説では、モダンホラー・ブーム沈静化以降に伸張したパラノーマル・ロマンスに先駆けて人外の存在との恋愛を描いた作品すら、すでに見受けられるほどだ(たとえば、Louisa Bronte"Lord Satan",1972)等)。キング以降のモダンホラーに直接つながっていく作品様式は、キングの登場までにはほぼ確立されていたと見て、差し支えないように思う。キングの登場が、モダンホラーをより大きなものに押し広げたことは間違いないのだが、彼もまた、それ以前からのホラー・ジャンルのより大きなうねりに支えられていたと考えるべきだろう。

 ところが、こうしたキング登場以前のモダンホラーの動向は、日本ではこれまでほとんどまともに紹介も研究もされてこなかった。キング以前のモダンホラー長篇のうち日本で翻訳出版されたものは50数冊ほどで、全体の1割弱といったところだろうか。選ばれている作家・作品に片寄りもあって、全貌を窺い知ることなどとてもできない。しかし、だからといって単純に日本のホラー翻訳者や研究家を責めたりするのは、筋違いだろう。なぜなら、英米本国でもキング登場以前のモダンホラーについては、まだ充分に評価が定まっていないからだ。急激に量が増えただけに玉石混淆なせいもあるが、あちらのホラー小説史研究でも言及される作品はごく限られており、多くの作品はリプリントもされず忘れ去られた状況にある。

 だが、こうした状況に近年、変化の兆しが見えてきている。若いころにこうした作品を読んできたファンたちが埋もれた作品を発掘紹介する個人サイトを立ち上げたり、英国ホラーを中心にファン同士が語り合うフォーラムサイト"Vault Of Evil: Brit Horror Pulp Plus!"が生まれたりして、徐々に情報がネット上に集積・流通され始めている。さらには、以前にこのブログでも紹介したヴァランコート・ブックスランブルハウスのように、埋もれたホラーの復刻出版に乗り出す小出版社も複数現れている。

 このブログでも今後、なかなか邦訳されそうにない作品を中心に未訳の作品を順次紹介し、キング以前のモダンホラーの姿を探っていこうと考えている。いつものことながら不定期な超スローペースになるだろうから、どうか気長にお付き合いください。

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2015/06/30

『幽』23号と『堕天使のコード』

 怪談専門誌『幽』第23号[Amazon]が発売された。特集は「幽霊画大全」で、詳しい内容はこちら。今号は大幅な誌面刷新があって、私が書かせてもらっているブックレビューのページは、インタビューやコラム記事と「おばけずきフォーラム」というコーナーにまとめられ、一人で1ページを使わせてもらえるようになった。1ページ1冊でも複数冊まとめてでも、どちらでも差し支えないのだそうだ。

 また、ブックレビューについてはあらかじめジャンルの担当を割り振るということで、私は海外文学の担当となった。『幽』の書評はいつも、対象期間内の本から書評者が希望の本を選び、ダブりが生じた場合は編集部で調整して誰がどの本を書評するかを決めている。荒蝦夷の土方正志さんも海外文学担当のようだから、今後は彼の希望と調整することになるのだろう。

 今回、私が書評したのは、カナダの作家アンドリュー・パイパーの『堕天使のコード』(新潮文庫)[Amazon]である。これはまずダブりやしないだろうと思いつつ第1希望にしたら、やはりすんなり通った。というのは、どういうわけだか版元がホラーではなくミステリーであるかのように売り出していて、正統派の超自然ホラーであることがあまり浸透していないようだったからだ。邦題はまるで『ダ・ヴインチ・コード』の二番煎じスリラーみたいなのにされているが、原題は"The Demonologist"(『悪魔学者』)、ミルトンの『失楽園』を専門に研究しながら神も悪魔も信じていない大学教授が悪魔の奸計にはめられ、奪われた娘を取り返すために苦闘するという、堂々たるオカルト・ホラー長篇なのである。

 実は私は以前、いまはなき『SFオンライン』で同じ著者の処女長篇『ロスト・ガールズ』(早川書房)[Amazon]を書評したことがある。これは殺人事件の弁護を引き受けた弁護士が、犯行現場と目される湖で人を誘い溺れさせる伝説の女怪に惑わされていく、法定サスペンス+ホラー的な作だった。悪夢や幻覚、不吉な偶然の一致といった間接的な怪異描写を積み重ねて超自然的な力の実在を徐々に体感させるという渋い手法を、新人らしからぬ堂に入った手際で駆使していているのに感心させられた反面、ストーリー展開がやや単調で冗長に感じられたのと、主人公の弁護士が敏腕を通り越してえげつない嫌な男だったので感情移入しづらいという難点もあった。

 長篇第6作だという『堕天使のコード』は、基本的な怪異醸成法は『ロスト・ガールズ』のそれを引き継ぎつつも、現実が幻想に侵され崩壊していく感覚はより激しさを増していた。そして、愛する娘を奪われた男という誰もが共感しやすい人物を主人公に据え、悪魔が彼を翻弄し二転三転していくストーリーは最後まで張り詰めた緊張感に満ちている。つまり、処女作のよかったところはよりよく伸ばして悪いところはきっちり改善している、まことに頼もしい力作だったのである。

 そんな力作なのに版元がなぜかミステリーであるかのように売り出すものだから、ネット上の感想をあちこち見ているとホラーファンの間ではさほど評判になっていないようだし、ミステリーだと勘違いして不満を表明している読者もいる始末。冗談じゃないよ! というわけで応援の書評を書かせていただいた。本ブログを読んでくださっているような方であれば、決して読んで損した気分にはならないはずなので、ぜひご一読を。あ、もちろん『幽』もよろしくお願いしますね。

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2015/06/11

ブラックバーン・リバイバル『獅子の顔』"The Face of the Lion"

 ジョン・ブラックバーンに新たなリバイバルの波が来ている。といっても、アメリカでの話なのだが……。ヴァージニア州リッチモンドに、ゴシック小説やホラー、ミステリのリプリントを専門にしているヴァランコート・ブックス(Valancourt Books)という小出版社があって、2013年からジョン・ブラックバーンの小説を復刻し始めており、現在、なんと15作にも達しているのだ。ブラックバーンが生前に発表した長篇はぜんぶで28作なので、半分を超えている。

 この他、イギリスのミステリ専門リプリント出版社であるオスタラ・パブリシング(Ostara Publishing)も2010年に『リマから来た男』を復刻している[Amazon][kindle]ので、現在、新刊で入手できるブラックバーンの著作は計16冊になる。2006年から2009年にかけて論創社がブラックバーンの長篇を3冊邦訳し、本ブログでもブラックバーンを繰り返し取り上げたことがあったが、あのころには彼の著作は英米でも軒並み絶版品切れで、高い古書を買うしかない状態だった。実力からすれば再評価されて当然なのだが、まるで夢を見ているかのような気分にさせられる。

 もっとも、その夢は甘いばかりではなかったりする。だって、自分が大枚叩いて買った本まで安価で復刻されてしまうんだもの! さんざん悩んで「これぐらいなら手を出せる」と決断した"Devil Daddy"(1972)[Amazon]がほぼ3分の1の2000円そこそことか!? ――などと見苦しく愚痴っていても仕方ないので、ヴァランコート・ブックスの復刻から1冊を選んでご紹介しよう。1976年発表の『獅子の顔』"The Face of the Lion"である[Amazon][kindle]。

 本書は、創元推理文庫の邦訳により日本でもおなじみである、イギリスに帰化したユダヤ人細菌学者マーカス・レヴィン卿と、その妻で元KGBエージョントのタニアを主人公にしたシリーズの1冊に属するが、彼らの友人である英国諜報部のカーク将軍は登場していない。レヴィン卿夫妻が主役なので当然ながら今回も危険な微生物が絡んでおり、感染者を醜い顔貌に変じさせ凶暴化させる謎の疫病に、二人は立ち向かうことになる。書名の『獅子の顔』はその疫病の症状にちなんだもの。感染者を獅子顔にする伝染病というとハンセン病が有名だが、顔に結節が生じれば獅子顔になるわけで、ハンセン病のみの症状ではないのだそうだ。ヴァランコート・ブックス版ではカバーアートがライオンそのもので、なんだか可愛らしい(※amazonの画像リンクです)。



 しかし、初版のカバーはこのようにもっと謎めいて恐ろしげなものだった(※これもamazonの画像リンク)。


 物語は、スコットランドのある地方領主がどんどん強大になっていて、独立運動の果てに私設軍隊まで作り、どうやら核兵器を所有しているらしいという大ネタから始まる。謀反と疫病とはすごい取り合わせ、さすがブラックバーン! と期待してしまうところだが、残念ながら止めどなく広がる疫禍によって謀反の方は序盤で自然消滅してしまい、謎の疫病がどこから生じたのかと、感染拡大をいかに食い止めるかに焦点は絞られていく。

 処女作『刈りたての干草の香り』(1958)[Amazon]を強烈に彩っていた阿鼻叫喚のモンスター・パニック的描写も本書では抑制されており、ブラックバーンにしてはずいぶんまっとうな小説となっていた。諜報サスペンスとSFとホラーをない交ぜにしたような、独特の作品世界を好む読者には、ちょっと物足りなく感じられるかも知れない。それでも、彼らしいシニカルなユーモアは健在で、破滅的な災厄こそ回避されるものの、ほろ苦い余韻が残る皮肉な結末は味わい深い。

 なお、本書にはジョン・ブラックバーンの熱心な愛好家であるグレッグ・バー氏(と、読んでいいのかな? 綴りは"Greg Gbur"なんだけど)による巻頭解説が付されており、彼は本書をリビングデッド系ゾンビ小説の先駆の一つと位置づけている。彼によれば、小説において増殖する生ける屍の群れを魔術ではなく疫禍と結びつけたのはH・G・ウェルズの『世界はこうなる』(1933)[Amazon]を嚆矢とするという。しかし、本格的にリビングデッド系ゾンビ小説が書かれるようになったのは、その後ジョージ・ロメロらによる映画のブームを受けてずっと後の、スプラッタパンク系ホラー・アンソロジー『死霊たちの宴』(1989)[Amazon]以降のことであって、ブラックバーンの『獅子の顔』はそれらを繋ぐミッシングリンク的な作品であるとのこと。熱心なゾンビ・ファンには異論があるかも知れないが、なかなかおもしろい論考だった。

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2015/06/08

ホラー専門誌『ナイトランド』復活

 もうご存知の方も多いだろうが、諸般の事情で休刊中だったホラー小説専門誌『ナイトランド』が、版元を《トーキングヘッズ叢書》のアトリエ・サードに変えて活動を再開している。『ナイトランド・クォータリー』と誌名を改めた新創刊号は吸血鬼特集で、詳しい内容はこちら

 以前と較べると、時事的な記事や雑文的コラムが廃されていて、特集に特化した作りになっている。小説作品の中では、夜間高校を舞台に吸血鬼になった少女と奇病で死に行く少女とのせつない友情を描いた、セシル・カステルッチ「エイミーとジーナ」がずば抜けて良かった。解説によると作者は本来ホラーではなくヤングアダルト小説の作家であり、エレン・ダトロウとテリ・ウィンドリングが編んだ吸血鬼アンソロジーに招かれて書いたものとのことで、なるほどと思わされた。

 惜しくも刊行には至らなかった《ナイトランド叢書》も、企画を改めて再出発という告知が掲載されていた。今夏から刊行が始まる第1期のラインナップは以下のとおり。

ロバート・E・ハワード『失われた者たちの谷 ハワード怪奇傑作集』(中村融編訳)
ブラム・ストーカー『七つ星の宝石』(森沢くみこ訳)
アリス&クロード・アスキュー『心霊探偵エイルマー・ヴァンス』(田村美佐子訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『<グレン・キャリグ号>のボート』(野村芳夫訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(荒俣宏訳)
ウィリアム・ホープ・ホジスン『幽霊海賊』(夏来健次訳)

 古典寄りになるらしいことは風の便りに聞いていたが、ハワードの傑作集以外は総入れ替えになっている。とはいえ、なかなかの壮観である。まるで懐かしの《ドラキュラ叢書》(国書刊行会、1976~77。詳しくはこちら)が帰ってきたかのようではないか。

 ホジスンのボーダーランド三部作がついに全訳というのも嬉しいが、何よりも驚かされたのは、このブログでも以前にご紹介した『エイルマー・ヴァンス』連作が予定に入っていることだ。ハワードもホジスンもストーカーも、ホラー文学史で確固たる評価を得ている大作家である。一方でアスキュー夫妻はこれきりしかホラーを書いていないらしく、『エイルマー・ヴァンス』もホラー史を論じた文献で触れられることなんて、まずない。まさかこんなマイナー作が邦訳される日が来ようとは。

 知名度が低いのに邦訳されるということはつまり、純粋に作品のおもしろさのみによって選ばれたということだ。いや、実際、それだけのことはある良作なんですよ、ほんと。日本の読者にどのように受け入れられるか、私は今から楽しみでしようがない。一つだけ気になるのは、仮題とはいえ原題の"Ghost-seer"を訳さずに「心霊探偵」に変更していること。以前に書いたように、内容的に直訳の「見霊者」がぴったりなのである。一般読者には耳慣れない「見霊者」より、「心霊探偵」の方が売り出しやすいんだろうけどなあ。

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2014/08/31

色即是空というやつか

 形あるものは、すべていつか朽ちていく。いまさらながら、それを実感したという話。

 あちらではそこそこメジャーなのに、なぜか日本ではほとんど知られていない、ピーター・サクソン(Peter Saxon)のオカルト探偵団物《ガーディアンズ》シリーズ。その第2巻にあたる『Through the Dark Curtain』(1968,Lancer)を読み始めたところ、パキッと嫌な感触が……。そう、糊の経年劣化で背が割れてしまったのである。読むほどにページが外れていき、読了時にはこのありさま。

Ttdc02_2

ま、おかげでこんな写真も撮れますけどね。

Ttdc01_2

なかなかイカすカバーアートだが、実際は作中にこのような場面はなかったりする。まあ全体の雰囲気はこんな感じかな。《ガーディアンズ》シリーズはぜんぶで6作あるので、すべて読み終えてからまとめて本ブログでご紹介するつもりにしている。まだ3冊しか読めていないので、たぶん来年になってしまうだろう。とりあえず、手持ちの全6作の表紙だけお披露目しておこう。

Guardians

 めざとい方は、上で『Through the Dark Curtain』を第2作と紹介しているのに、『Dark Ways to Death』のカバーに「♯2」とあるのに気づかれただろう。ところが実は、『Dark Ways to Death』はシリーズ第1巻なのである。《ガーディアンズ》シリーズは短い期間で複数の出版社から新作が出たりリプリントされたせいで、ちと書誌がこみ入っている。その事情も含め、またあらためてご紹介したい。

 それにしても、この『Through the Dark Curtain』、古書店の状態説明は「Very Good」だったし、手に取った感じはまだ堅牢そうだったんだけどなあ。46年も経ったマスマーケット・ペーパーバックだから、仕方ないのか。などと嘆いている最中に、また海外から取り寄せたペーパーバックが届いた。

 マイケル・ブランドンが1944年に発表したブードゥー・ホラーの長篇『Nonce』。そのリプリント版で、Avon Booksから1953年に出たものである。

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 これも「Very Good」で、値段もそれなりだったのだが、ページを開くとこんなことに……。

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 読んだらぜったいバラけるよねえ。うーむ、「金を惜しんではならぬ」という、古本の神様の思し召しなのか!?

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2014/07/13

『風神の邪教』とブライアン・ラムレイのこと

 ブライアン・ラムレイは、私にとって特別なホラー作家である。あくまで「特別」であって、「好き」ではない。仮に誰かに「好きなホラー作家は?」と問われたとして、「ブライアン・ラムレイです!」と胸を張って答えるのは、なかなか勇気が要ることのように思う。とはいえ、決して嫌いではない。そもそも、ラムレイのことが嫌いなホラー・ファンなんて、いるのだろうか? では「普通」かといえば、どう考えたって普通ではない。やはり、特別なホラー作家と呼ぶしかないのである。

 私がラムレイに対し特別な思いを抱くようになったのは、もちろん彼のホラー作家としての個性が第一の要因なのだが、もう一つ、ある個人的な体験が背景にある。1991年のことだ。数日間の香港旅行を楽しんでいた私と妻は、香港島の繁華街でとある新刊書店を覗いた。どこの何という書店だったか、正確には覚えていない。確か中規模ワンフロアの総合書店で、たまたま見つけたのではなくガイドブックに載っていた店だったと思う。一通りの分野の本は置いているものの、決して品揃えは多くない、ごく普通の書店である。その棚に何と、ブライアン・ラムレイのクトゥルー長篇『The Burrowers Beneath』の初版本(DAW Books,1974)[Amazon]が、平然と並んでいたのだ!!

Burrowers


 17年も前のペーパーバックが、どうしてこんな店に? 私は我が目と正気を疑いつつも、狂喜してこの掘り出し物を購った。

 古書店めぐりを趣味にしている者ならば誰しも、思いがけないところで掘り出し物に出くわし、まるでその本が自分を待っていたかのような、あるいはその本に自分が呼ばれたかのような錯覚を抱いてしまったことが、一度や二度はあるだろう。私も何度かそういう経験があるが、これほど鮮烈な出会いはほかにない。そして、このDAW Books版『The Burrowers Beneath』こそが、私が生まれて初めて一冊まるごと通読した洋書となった。

 しかも、その内容たるや! 後に『地を穿つ魔』(創元推理文庫)[Amazon]として邦訳されたのでご存知の方も多いと思うが、新登場の邪神クトゥーニアンの眷属は、地を駆け巡って暴れ回るわ卵を産んで繁殖するわで、もうほとんど地底怪獣。人間たちは邪神に対抗するためにウィルマース財団なる組織を立ち上げ、旧神の印が入った石を吸血鬼に対する十字架のように用い、邪神を狩っていく。ラヴクラフトの陰鬱さなど微塵もない、ノリノリの冒険活劇なのである。水に弱いというバルゴンみたいな弱点のあるクトゥーニアンから逃れて海を渡ったけど、海底の地層を掘って追っかけてきましたとか(当たり前だよねえ)、絶大な効果がある一方で数が限られている旧神の印の石をどうするかという問題が起き、小さな欠片でも効くからそれを埋め込んだイミテーションを量産すればOK!だとか、つっこみどころ満載の脳天気な展開の連続に、私はクラクラとめまいを催したのだった。

 念のために強調しておくけれど、私は決してラムレイを貶そうとしているのではない。私は私なりに『The Burrowers Beneath』を大いに楽しんだのだし、この体験がその後、続けてホラーを原書で読んでいくきっかけになったのだから。

 かつて東雅夫がラムレイのことを加山雄三の若大将に引っかけて「クトゥルーのバカ大将」と書いたことがあったが(『幻想文学』第6号所収「ラヴクラフト症候群必携」)、これほどラムレイの作風を的確に言い表した言葉もないだろう。確かに、彼の脳天気すぎる作風は、バカといわれても仕方ないレベルである。でも、彼の若大将のような底抜けの無邪気さには、同じホラー・ファンとしてほほえましい共感を抱かずにはいられないのだ。ラムレイは1946年生まれだから、『地を穿つ魔』の発表当時は38歳。この年齢になってこれほどまでに子供のような純真さを持てているとは、驚嘆すべきではないか。いや、それどころかラムレイは、その後もこの天真爛漫さを保ち続けているのである――。

『地を穿つ魔』から始まる〈タイタス・クロウ・サーガ〉はその後も邦訳が続き、先だって第四弾『風神の邪教』(創元推理文庫)[Amazon]が刊行された。今回の敵側ボスキャラは風神イタカ。このイタカにウィルマース財団のメンバー数名が掠われて極寒の異星に飛ばされ、イタカに反旗を翻した彼の娘が率いる集団と、イタカ信者の軍団との抗争に巻き込まれるという、ホラーというよりは異世界冒険ファンタジーであった。

 原書の発表は1978年。スティーヴン・キングの登場によるモダンホラー・ブームがぐんぐん盛り上がったころであるが、ラムレイはそんなことはまったく意識せず、独自の作風を貫いている。風神イタカは、小型飛行機を片手でつまむ巨体でまたもや怪獣映画テイストを満喫させてくれる一方、寂しがりやの助平オヤジという、意表を突く一面も見せる。さらに、旧神の印の石がカイロとして使えることが判明するわ、主人公はイタカの娘と恋仲になってしまうわと、呆れるほどに大胆不敵な趣向が次と次と繰り出され、圧倒的な敵の軍勢を斥ける最後の秘策が――ああっ、いいの? そんな罰当たりなことして!?

 異世界での恋愛を絡めた冒険ファンタジー仕立てになっていることについて、エドガー・ライス・バロウズとの類似を指摘する声もあるようだけど、いや、これはエイブラム・メリットでしょう。バロウズが描く異世界は、トンデモであれ必ず疑似科学的な設定が細かく凝らされているのに対し、『風神の邪教』はまったくの超自然。そして何より、ヒロインが超常的な能力を持ち異世界に君臨していることが、バロウズよりも断然、「メリッテイル」とも称されたエイブラム・メリットの独特な異世界ファンタジーを思わせる。おそらく『風神の邪教』は、ラムレイのメリッテイルへの愛着を、クトゥルー神話に託して表現したものなのだろう(メリット愛好家の皆さんは、どうか石を投げないでくださいね)。

 すぐれた超自然小説とはとてもいえないのだけど、ラムレイの小説には、同じファンとしてほほえんで肯かずにはいられない、ジャンルへのピュアな愛が溢れている。そんなラムレイの作品が継続して訳され、読者に受け入れられてる状況に、日本もまだまだ捨てたもんじゃないよねと私は思うのである。

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2014/01/13

《ナイトランド叢書》

 ホラー専門誌『ナイトランド』誌上で予告のあった《ナイトランド叢書》のラインナップが、昨年暮れに版元トライデントハウスのサイトで発表された。第一期は下記のとおり。

ジョー・R・ランズデール『死者の町』友成純一・訳
DEAD IN THE WEST by Joe R.Lansdale

ロバート・E・ハワード『失われた者たちの谷 ハワード怪奇幻想傑作選』中村 融・編訳
VALLEY OF THE LOST and other horror stories by Robert E.Howard

デニス・エチスン『ダーク・カントリー(自選版)』植草昌実・訳
DARK COUNTRY by Dennis Etchison

 予想を上回る充実ぶりにびっくり。ただし、出版社直販のみ各2000部ずつの限定出版で、予約が1000部に達しないと発行されないとのこと。

 個人的にいちばん楽しみなのは、デニス・エチスンの短篇集。いや、楽しみというより、もうとっくに個人選集が邦訳されているべき実力の持ち主ですよ、彼は。予約期限は3月末日なので、皆さん迷わず予約しましょう!

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2013/12/23

『シルヴァー・スクリーム』

 デイヴィッド・J・スカウ編『シルヴァー・スクリーム』(創元推理文庫)上・下巻[Amazon][Amazon]を、訳者のお一人である夏来健次さんからご恵贈いただきました。ありがとうございました。

 本書は映画をテーマにした傑作ホラー・アンソロジーとして、本邦では名のみ知られていた。原書が出たのは1988年のことだから、もう25年も前になる。古いからといって軽く扱うべきではない。むしろこの古さにこそ、今回の邦訳の意義があると、私は思う。

 スティーヴン・キングの衝撃的な登場を経てモダンホラー・ブームが巻き起こったのは、1970年代後半のこと。『シルヴァー・スクリーム』が世に出たのは、キングに追随する作家たちが次々と現れたことによりホラー作家協会(HWA)が設立されブラム・ストーカー賞が始まったのと同じ年で、いわばブームの爛熟期に当たる。この後、90年代半ばまでには、モダンホラー・ブームはほぼ沈静化してしまうからだ。

 ただし、気をつけなければならないのが、ブームが終わったとはいってもあちらのホラー出版の勢いは、日本とは比較にならないほど依然として盛んであることだ。たとえば、年刊ベストホラー短篇選集『The Best Horror of the Year Vol.5』(Night Shade Books)[Amazon][kindle]の2012年度ホラー出版総括で、エレン・ダトロウが"Notable Novels"として内容を詳しく紹介している長篇は実に23冊、"Also Noted"として簡略に言及しているものは32冊にも上る。このうちこれから先に邦訳されるのは、おそらくはほんの一握りだけだろう。

 邦訳に頼っている限り、日本の読者は英米のホラー・ジャンルの動向を概観することすら難しいといわざるを得ないのである。実は、上述のモダンホラー・ブームの約20年間に生まれた作品にしても、名作として定番的な世評を得ている作品すらごく一部しか邦訳されていないのだ。この『シルヴァー・スクリーム』のような、もっともモダンホラーに元気があった時代の本の邦訳は、もっともっと積極的に進められなければならない。

『シルヴァー・スクリーム』がモダンホラー・ブーム爛熟期の成果であるということは、確立期を代表するアンソロジーである『闇の展覧会』(1980)[Amazon]と比較すれば、よくご理解いただけるかもしれない。モダンホラーの見本市とでもいうべき『闇の展覧会』の安定感と較べると、『シルヴァー・スクリーム』はより過激に、より先鋭に進化している反面、ある種の危うさも感じさせる。

『シルヴァー・スクリーム』には、原書刊行当時のモダンホラーにおける2つの大きな潮流が、顕著に現れている。1つは、第1回・第2回のブラム・ストーカー賞でベスト長篇賞を獲得したキングの『ミザリー』(1987)とトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(1988)のヒットによって起きた、サイコスリラー・ブーム。モダンホラー・ブームは本来、それまで大きなヒット作が少なかった超自然の恐怖を主題にした長篇小説が次々とベストセラーになっていくことで始まったのだが、このころからサイコ系の作品の比重が増えていった。『シルヴァー・スクリーム』収録作のうち約4割は、超自然的要素のないサイコスリラーもしくはサスペンス系の小説である。しかも、そちらの方が超自然系の作品よりも、水準が高いものが多い。

 もう1つは、スプラッターパンク。暗示を積み重ね徐々に恐怖感を盛り上げる伝統的な怪奇小説の手法を生ぬるいと排斥し、過激なスプラッター描写で読者の常識に揺さぶりを掛けることを目指すという趣旨の運動で、本書の編者デイヴィッド・J・スカウはその父親とも称される人物である。本書の収録作は、スプラッターパンク派には属しない作家のものもあるが、ほとんどがあからさまな残虐描写が容赦なく盛り込まれているので、気の弱い読者は一定の覚悟が必要となる。これら2つの潮流は、結局はモダンホラーの凋落を押し止めるには至らなかったものの、爛熟したブームの副作用というべき粗製濫造とマンネリ化を打開する可能性として、当時は期待されていたのである。

 このアンソロジーの主題である映画への愛をよく表明している作品としては、まずロバート・R・マキャモンの「夜はグリーン・ファルコンを呼ぶ」を挙げねばなるまい。年老い落ちぶれた連続活劇のヒーロー俳優が、再びヒーローの衣装を身にまといシリアルキラーに立ち向かう姿をコミカルに描きつつもホロリと泣かせ、抜群におもしろい。ところが、もとより恐怖を狙っていない人情物サスペンスというべき作であって、スプラッター味もごく薄い。これをホラーと呼ぶのは、さすがに抵抗を感じずにはいられない。

 本書のサイコ系作品でもっとも優れているのは、スティーヴン・R・ボイエットの「アンサー・ツリー」だろう。映画作家の狂気が遺作のフィルムを通じて研究者に伝染していくという物語なのだが、超自然的な呪いが働いているわけではなくて、ただ映像の力だけで狂わされていく。この言葉だけで再現された映像のイメージが実に忌まわしく、まるで紙面から狂気が染み出してくるかのようだった。驚嘆すべき筆力である。しかし同時に、ある戸惑いを禁じ得なかった。危険な内容の映画が受け手の心をも侵す。映画を主題としたホラーとしては魅力的な題材だし、ホラー愛好家であればるほど心騒がされずにはいられない。だが、これはホラー・バッシングの理論にも近接しているのではないか。

 本書では「アンサー・ツリー」の他にも、レイ・ガートンの「罪深きは映画」、ジェイ・シェクリーの「バーゲン・シネマ」、ジョー・R・ランズデールの「ミッドナイト・ホラー・ショウ」、リチャード・クリスチャン・マシスンの「サイレン」といった、「危険な題材の映画は、受け手を危険人物にする」または「危険な題材の映画を愛好するのは、危険人物である」という趣向の作品がいくつかある。それぞれに恐怖小説としてはたいへん優れており、読者の常識に揺さぶりを掛けるというスプラッターパンク派の狙いを、よく体現しているといえよう。それだけになおさら、ホラー・バッシングとの関連をどうしても意識してしまうのだ。一方で、ダグラス・E・ウィンターの「危険な話、あるいはスプラッタ小事典」は、ホラー・バッシングも社会的な暴力ではないかと訴えている。こちらは構成の妙で読ませるものの、良識的すぎてホラーとしてのインパクトには今ひとつ欠けていた。

 ホラーの魅力をとことんまで突きつめていくと必ず、惨劇を楽しむということに行き当たる。スプラッターパンク派の作家たちは、バッシングを呼び込む危険を敢えて冒しつつも、そこから目を逸らさなかったのだろう。『シルヴァー・スクリーム』には、モダンホラー・ブームが一つの曲がり角に差し掛かりつつあった時期の「ホラーとは何か」「ホラーはどこに向かうべきか」という作家たちの問い掛けが、生々しく息づいている。

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2013/07/15

フローレンス・スティーヴンソン『The Witching Hour/Kitty Telefair Gothic Series #1』

 前回の記事にも書いたとおり、現在のモダンホラーに至る流れは、スティーヴン・キングから突発的に始まったわけではない。すでに1960年代から70年代前半にかけて、相当な数のホラー長篇が続々と書き下ろされ出版される状況にはあったのだ。だが、これらはほとんどが廉価なペーパーバックとして世に出されたもので、作品の質もまた読み捨て扱いがふさわしい水準でしかないものが多く、これまでろくに研究の対象にされてこなかった。

 文学史はどのジャンルでも、後世まで読み継がれるような名作群を数珠つなぎに語っていくことで記述されがちである。しかし、実際に各時代のジャンルを支えていたのが、そのような時代を越えうる名作であるとは限らない。たとえば、モダンホラーに先駆ける戦前期の英米ホラー小説の巨匠として挙げられるのは、決まってH・P・ラヴクラフトである。したがって、いかにラヴクラフト風のホラーから脱したかという観点で戦後のホラー小説が語られていくことが、一つの通例のようになっている。ところが実際には、ラヴクラフトは生前にはまともな単行本を出版することもできなかったマイナー作家でしかなかった。現在の彼の名声は、死後の再評価によって得られたのものなのだ。

 そのころホラー系作品でベストセラーを生み出してジャンルを支えていたのは、ホラー小説史ではごくわずかな言及で済まされがちで、今ではほとんど読まれることもないデニス・ホイートリーのような作家であった。しかも、お世辞にも高水準とはいえない彼の作品群が作り上げた、大風呂敷なオカルト・アクション・スリラーという様式に着目すると、ホイートリーからジョン・ブラックバーンへ、ブラックバーンからこの3月に物故したジェームズ・ハーバートへと、現在のモダンホラーに直結していく流れが浮かび上がりさえする。そしてこの流れの中には、いまだ日本には邦訳どころか名前すら伝わっていない群小作家たちがおおぜいひしめいている。いうまでもなく、個々の作品を評価するときには、質的に厳密な判断が要求される。しかし、ジャンルの全体像を捉えようとするときには、作品の質にばかりこだわっていると見えなくなってしまうものが、非常に多いのである。

 こうしたモダンホラー史的観点から非常に興味深く、また質もそれなりの水準に達しているのに埋もれている作品に出会えたので、ご紹介しよう。フローレンス・スティーヴンソンの『The Witching Hour』(1971,Award Books)である。

Witching

 フローレンス・スティーヴンソン(Florence Stevenson,1922-91)は、殺されたネコが人間の女に生まれ変わって復讐するという奇妙なホラー長篇『Ophelia』(1968)でデビューし、ほかに5つもの筆名を用いてホラーやロマンス小説を量産した女流作家である(ここここに書誌があるが、いずれも完全ではない)。今回ご紹介する『The Witching Hour』は、女性心霊探偵を主人公にした「キティ・テレフェア・ゴシック・シリーズ」(Kitty Telefair Gothic Series)の第1弾で、シリーズは下記の全7冊である。

(1)『The Witching Hour』(1971)
(2)『Where Satan Dwells』(1971)
(3)『Altar of Evil』(1973)
(4)『Mistress of Devil's Manor』(1973)
(5)『The Sorceror of the Castle』(1974)
(6)『The Silent Watcher』(1975)
(7)『The Horror from the Tombs』(1977)

 シリーズの主人公キティ・テレフェアは、赤い髪に緑の瞳と、しなやかな肢体を持つ、26歳のアメリカ人女性である。テレフェア家は、オカルトに関する古今東西の広範な知識と種々のサイキック能力を代々受け継いでいる家系で、一族の者たちは素性を隠しつつも特異な能力を活かせる職に就いていた。実はテレフェア家のような家系は世界の方々にあり、キティはその一つであるキャスウェル家の青年コリンと婚約を結んでいる。コリンはテレビの深夜番組「The Witching Hour」のメインキャスターを務めており、キティはその番組中で超常現象専門のレポーターとして働いていた。婚約者コリンやテレフェア家の人々の助けを得ながら、キティはさまざまな怪異に立ち向かっていく。

「Witching Hour」とは、さまざまな化け物が這い出すような深夜のことを指すから、素直に日本語に訳すなら「丑三つ時」になるのだろう。しかし、ここではかなり違和感があるような……。ちなみに、アン・ライスに同題の長篇があって、そちらは『魔女の刻』という邦題になっている。本ブログでは原則的に未訳作品は題名を訳さないまま表記しているが、へたに訳すよりもそのままの方が、原題でネットを検索した場合にヒットしやすいだろうと考えているからである。

 その番組タイトルを冠した第1作でキティは、永遠の美貌と美声を保ち続けている女性オペラ歌手の謎に挑む。もはや老婆といってよい年齢なのに、若い娘のようなみずみずしさと張りのある歌声を保ち続けている世界的プリマドンナ、マダム・ジアニーニ。キティはコリンの番組の取材を通じ、マダム・ジアニーニと、彼女に弟子入りする予定の若き歌手志望者ペギー・オザンヌに出会う。ペギーには恋人テッド・ラトリッジが付き添っていたが、なぜかペギーの弟子入りを喜んではいない様子だ。それどころか、後日キティのアパートを訪れたテッドは、ペギーをマダム・ジアニーニの元から救い出して欲しいと頼み込むのだった。

……弟子入り候補を選別したオードウェイ博士は、ペギーを歌手ではなく発声器官としてしか見ていないようだった……ペギーは何かに取り憑かれたかのように人が変わり、マダム・ジアニーニ以外の何も目に入らなくなってしまった……弟子入り期間は1年間。その間、一切外部と連絡できなくなるとは、どういうことなのだろう?……

 テッドの証言にキティは、たしかに異常さを感じるものの超常的な何かが関わっているとは断言できないとして、ペギー救出の依頼を断ってしまった。ところが、その後キティは、伯母のアスタルテからとんでもない昔話を聞いてしまう。キティがまだ幼いころ、メロディ・ブレアという名のオペラ歌手志望の娘がテレフェア家に出入りしていた。メロディはペギーと同様にマダム・ジアニーニのところへ一年間弟子入りし――それきり失踪してしまった――!!

 上掲のとおり、本書は何とも扇情的なカバーアートに飾られているのだが、実際に読んでみるとそういう淫靡なシーンはまったくない。若くお転婆なヒロインのくだけた独白体で綴られる物語はむしろほがらかで健康的というべきで、怖さもほどほど。婚約者と少しいちゃつくシーンはあるけれど、生々しい性描写は一切なし。オカルト系の蘊蓄も、ほとんどない。全編の核心というべきマダム・ジアニーニの秘密の真相までもが、医学と心霊学の奇怪な混淆というべきけっこう大胆な大ネタに挑みながら、「とにかくそういうことをやってるんです!」程度で済まされてしまうのには面食らった。

 とはいえ、愛らしいヒロインのキャラ立てと起伏に富んだストーリーテリングを最優先する姿勢は、ホラー・ジャンルよりも娯楽小説の本旨に忠実なのだともいえよう。頭でっかちな重苦しさを嫌い、軽やかに駆け抜けていくように物語をまとめ上げてみせる作者の技量は大したもので、決して軽んじられるべきではないと思う。気軽に手に取れ、頭を使わずに楽しめ、さっと読み終えられるという、当時の読み捨てペーパーバックの目的にはこれで充分に適っているのである。

 さて、この愛すべき小品というべき一冊が、どうしてどうしてモダンホラー史的観点から興味深いのか?――キング登場以前のホラー小説史の隠れた鉱脈の一つとして、大量生産されていたロマンス小説のうち、超自然の領域に踏み込んでいる作品群がある。パラノーマル・ロマンスというサブジャンルがまだなかった当時、これらの超自然系ロマンス小説は、解明される超自然が主流であるロマンス小説の中に紛れ込む形で出版されており、いまだに全容は判然としない。

 フローレンス・スティーヴンソンは上述のとおり、ホラー小説とロマンス小説の両方で活動していた作家である。本書はカバーアートから判断するに、きっとホラー小説として出版されたのだろう。ところが、中身を読んでみると、ロマンス小説的な雰囲気もかなり濃い。キティはテレビ業界で働き華やかなセレブ女性と語らう機会の多い婚約者に「わたしのことをいちばんと思ってくれてるのかしら?」とやきもきしており、さらにシリーズの後半ではふたりの恋の行方が物語の焦点の一つになっていくのだという。

 さらに、キティがそれまでのロマンス小説に典型的な、過酷な運命に翻弄される女性などではなく、むしろ積極的に騒動の中に飛び込み、特殊な能力で解決してしまうヒロインであることにも注目されたい。ホラー小説とロマンス小説の両方を手掛けていたフローレンス・スティーヴンソンによって、オカルト・アクション・スリラーとロマンス小説は統合され、バトルヒロイン系パラノーマル・ロマンスの先駆が誕生した。本書を読み終えて、そんな瞬間を私は目にした気がしたのだ。

 もちろん、これはまだまだ単なる仮説の域を出ない。それを突きつめていくには、膨大な読み捨てペーパーバック・ホラーの暗い大河に潜り、ロマンス小説の大山脈に隠れる鉱脈を掘り探っていくしかないのである――。


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2013/07/08

ラムジー・キャンベル『To Wake the Dead/The Parasite』

 大阪は日本では2番目の大都市のはずなのだが、何だかそれが疑わしいような気分になってしまうことが、往々にしてある。特に、これはどうにかならないものなのかと昔から思っているのが、洋古書を扱う店が東京はおろか京都や神戸に較べても少ないことだ。たとえば未訳のホラーの原書なんて、店頭で探そうと思ってもまず当てがない。最近は、大きめのブックオフならペーパーバックを置くところも出てきているようだが、ブックオフは新しめの本しか扱わないので、私が欲しくなるような本は期待できそうにない。

 それだけに、たまたま出物に遭遇したときの喜びはひとしおである。今から20年ほど前、吹田の天牛書店本店の店頭に、おそらくは誰かコレクターが処分したのだろうかSF/ホラー系のペーパーバックが継続的に並んだことがあった。現在のようにネット通販で気軽に洋古書が買える時代ではなかったので、なんといえばいいのかもう、狂喜乱舞した。しかも、いちばん最初に目に飛び込んだのが、以前から気になっていたラムジー・キャンベルの長篇『To Wake the Dead』(1980)だったのである。

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『To Wake the Dead』は、別名義のノベライゼーションを除けばキャンベルの第三長篇にあたる。ただし、第二長篇の『The Face That Must Die』(1979)[Amazon][kindle]はサイコ・スリラーだったので、超自然小説としては邦訳のある『母親を喰った人形』(1976)に続く二作目の長篇ということになる。題名を日本語に訳すなら、『死者を起こす』となろうか(ディクスン・カーに同題の長篇がある)。この長篇はアメリカで出版されるにあたり結末が変更された別バージョンがあって、そちらは『The Parasite』という題になっている。こちらは『寄生者』と訳すべきだろうか。

 私がこの本のことを知ったのは、自由国民社の『世界のSF文学総解説』によってであった。といっても、本文ページで詳しく紹介されていたわけではない。付録的に巻頭のカラーページでいろいろなSF系原書の書影と短いコメントが載っていて、その中にアメリカ版の『The Parasite』のペーパーバック(1980,Pocket Books)[Amazon]が含まれていたのである。私が天牛書店で手に入れたのは、あこがれの『The Parasite』ではなくて、『To Wake the Dead』のペーパーバック(1980,Fontana)[Amazon]だった。それでも、信じられないという驚きと喜びで、文字通り身体が震えたのを覚えている。

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 さて実際に読んでみた『To Wake the Dead』は――まずなかなかの難物であった。当時の私は、英語の小説をまだあまり読み付けていなかったので、モダンホラー作家としては例外的なまでに文体に凝るキャンベルの長篇を読み進めるのは、相当に骨だったのである。見慣れない単語や入り組んだ構文に惑わされ「はて、何が起きているのか?」と首をひねり頭を抱えされることが、数知れずあった。

とはいえ、同時に苦労しがいのある作品でもあった。この長篇はスティーヴン・キングが『死の舞踏』の中で好意的に取り上げており、一部が引用掲載されているのを読まれた方もあるだろう。キングが「LSDのトリップが始まりかけているかのような気分になる」などと評し、キャンベルの独特な文体の例として引いてるあの幻惑的な場面は、実は百貨店で禿頭の男に追われているのに気づいたというだけであって、何ら超自然的な怪異は起きていない。キャンベルの作品では、ごく普通の叙景と登場人物の心象風景との境があいまいにされており、その結果、現実と幻想を隔てる垣根が低くなっている。そこをひょいと乗り越えて、恐ろしい何かが姿を現してくる。この独特の恐怖感が、たまらないのである。すでに邦訳のあった処女長篇『母親を喰った人形』や「パイン・デューンズの顔」等の短篇も好きだったけれど、私にとってキャンベルが特にお気に入りの作家になったのは、この『To Wake the Dead』によってであった。

 ずっと後に、Pocket Books版の『The Parasite』も手に入れることができた。だが、そのころはちょうど『SFオンライン』でホラー書評を毎月書かせていただいた時期で、国内の新刊を消化するに追われていたため、時間を要するキャンベルの原書を読む余裕はまったくなかった。今回、巻末付録として『To Wake the Dead』のエンディングとキャンベル自身によるあとがきを収録した、Headline Book版の『The Parasite』(1993)[Amazon]を入手したのをきっかけに、ようやく『The Parasite』を読了することができたので、『To Wake the Dead』との違いも含めて内容をご紹介しよう。

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大西洋の東と西とで異なるタイトルを持つことになったこの長篇は、執筆時には『The Haunting of Rosabill』と名付けられていた。主人公ローズは、リヴァプールの大学で映画研究に関する講師として勤務している女性である。彼女は同業の夫とともに何冊か共著も出し、着実にキャリアを積み上げていく充実した日々を送っていた。だが、ローズには秘められた暗い過去があった。まだ10歳の少女だったころ、ローズは年嵩の友人たちとともに、地元では悪評の高い幽霊屋敷を探検したことがあった。何かが蠢く気配に肝を冷やした友人たちは、ローズを置き去りにして屋敷を飛び出してしまい、彼女は後から大人たちに助け出された。その間の記憶が、ローズにはまったくなかったのである。

 あるときローズは、不審な禿頭の男に後を付けられていることに気づき(『死の舞踏』に引用された、例の場面である)、出版の打合せのために訪れていたニュー・ヨークで、何者かにいきなり殴打されて失神する事件に遭う。その事件はローズの内部で何かを覚醒させ、彼女は幽体離脱体験を繰り返した果てに、自らの意思で身体を抜け出す能力を獲得するに至る。だが、オカルトを毛嫌いするビルはローズの体験を一切認めようとせず、二人の仲は次第に冷えて行ってしまう。ローズは自らの体験と能力の意味を探ろうとして独りオカルトの世界にのめり込んでいき、衰えた肉体を捨て他者の肉体を乗っ取っていくことによって不死を得た、邪悪な魔術師がかつて存在していたらしいことを知る。そして、彼女の身辺に迫っていた不穏な影の背後には、その魔術師の力を信奉している集団がいた。ヒトラー復活の陰謀や星辰界に棲まう超越的な存在の介入まで絡めて、物語はとめどなくエスカレートしていき、ローズは想像だにしなかった異常きわまりない世界での孤立無援の戦いを強いられていく――。

『To Wake the Dead/The Parasite』は一言でいうと、黒魔術の生け贄となる女性の受難を描くホラー小説の系譜に属する。その系譜は遠くパルプ・マガジンの諸作やデニス・ホイートリーのオカルトスリラー群にまで遡るものであり、モダンホラーにおいてはアイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』(1967)の大当たりによって1960年代末から70年代にかけて多くの追従作を生むに至ったのであるが、あいにくほとんどが邦訳されておらず、日本にはその活況がいまだに伝わっていない。この長篇は以上のような、スティーヴン・キングの登場以前(『キャリー』の出版が1974年)のモダンホラーの潮流を強く意識した作品であることを、まず強調しておきたい。

 現在は、モダンホラーというと「スティーヴン・キングとその他」というのが一般読者の認識だろうが、本ブログをご覧の皆さんならご存じのとおり、キングはモダンホラーの始祖ではない。すでにある程度の広がりを見せていたモダンホラーを、さらに一回り大きいジャンルに発展させた作家というのが正しい。ラムジー・キャンベルは、一般読者層の支持を得るのはキングに遅れたものの、ホラー作家としてのデビューはキングよりもはるかに早い。そして、ゴシック小説以来のホラー小説の歴史を常に意識して作品を書き続けている作家でもある。

 キャンベルの後書きによれば、この長篇を執筆した最大のきっかけは、処女長篇『母親を喰った人形』(1976)の商業的な失敗にあったという。キャンベルは当時すでに専業作家だったが、生活費の多くを妻のジェニー(SF作家A・バートラム・チャンドラーの娘)の稼ぎに頼っている状況にあった。アメリカでの出版エージェントであったカービー・マッコーリーはキャンベルに、「もっと読者が共感できるキャラクターを描いてみてはどうか」とアドバイスした。

 『母親を喰った人形』の登場人物たちは、揃いも揃ってコンプレックスが強く内省的な人ばかりであった。そこから生まれる歪んだ視点と不安定な語りが独特の味わいを生んではいるのだが、読者が共感するにはハードルが高いのも、また事実である。商業性を求めるならば、マッコーリーのアドバイスは的を射ていたというべきだろう。マッコーリーは、その当時好評を得ていたホラー小説のサンプルとして、ウィリアム・ピーター・ブラッディの『エクソシスト』と フランク・デ・フェリータの『オードリー・ローズ』、ジョン・ソールの処女長篇『Suffer the Children』をキャンベルに送ってくれた。キャンベルはこれらを熟読し、「大衆は、中流階級の登場人物が、自分には何ら責任のない危機によって追いつめられる物語を好んで読むのだ」という結論に達した。そうした商業的な需要に応えることを最優先しつつ、ホラー・ジャンルではすでに類型化しているような素材を盛りだくさんに取り入れて書き上げられたのが、『To Wake the Dead』だったのである。

 狙い通りに本書は商業的な成功を獲得し、キャンベルは英国のモダンホラーを代表する作家の一人となった。だが、根っから職人気質で自作をかなりきびしく評価する傾向のあるキャンベルは、「私の長篇の中ではもっとも気に入らないもの」とこの作品を切り捨てている(後書きに平然とそう書いているのである!)。確かに、ヒロインの穏やかな日常が揺らいでいく不安を丹念に追っているメインプロットに比して、ヒトラー復活の陰謀やら超越的存在の唐突な介入といった派手な趣向は、むりやり詰め込んだような違和感もある。受け狙いのサービス精神はそこそこに抑えて、もっと焦点を絞り込むべきだったのだろう。

 しかしながら、超自然現象に遭遇してまったために戸惑い、震える人間の心をこれほどまでに生々しく描き出している小説は、ホラー史上希有なのではあるまいか。思いがけず精神が肉体を飛び出してしまった驚愕と、意思の力でそれを統御し自在に宙を舞う瞬間のすばらしい解放の喜び。深い絆で結ばれている信じていた夫にも体験を理解してもらえず、孤立していく焦燥感。独り異常な世界の深みにどんどんはまっていき、自らの正気を疑いまでする強烈な不安。そして、自分の人生が邪悪で強大な力による企みに支配されていたことが判明する、出口のない絶望――再読で先の展開があらかじめ判っているにもかかわらず、私は過酷な運命に立ちすくむ主人公ローズの心の動きに深く共鳴してしまい、胸を塞がれ読み続けられなくなる瞬間が、何度もあった。ラヴクラフトが『文学における超自然的恐怖』で提示した「怪奇小説は、作者の意図や単なるプロットの組み立てなどで評価されるべきではない。もっとも日常を離れ得た瞬間の、情動の高さによって評価されるべきなのである」という基準に照らすらならば、露骨に商業的な意図で書かれていようが、発表当時すでに陳腐化しつつあった類型に依拠していようが、本書にはホラー小説として傑出したところがあるのは間違いない。

 本書で培われた共感しやすいキャラクター造形と日常描写のテクニックは、この後、キャンベルの独特な怪異描写に説得力を増す武器として活用されていくことになる。そして、登場人物の内的な恐怖を追うスタイルと、恐怖の根源が外的な力にある違和感という本書の弱点は、夢と現実が混淆する恐怖を題材にした『Incarnate』(1983)[Amazon]や、「猿の手」テーマをより洗練された超自然小説に仕立ようとした『Obsession』[Amazon][kindle]といった諸作によって、完全に克服されていく。たとえ著者のきびしい批評眼に適わなくとも、ホラー小説やラムジー・キャンベルのキャリアに格別の関心を持つ読者なら、本書は今なお一読の価値があると、私は確信している。

『To Wake the Dead』と『The Parasite』は何度か再刊されているものの現在はどちらも絶版であり、新刊では入手できない。キャンベルは米国版の『The Parasite』を出すに当たって、主人公ローズが誰にも知られないまま世界を救い自分を救済するために、ある過酷な決断を下すという内容にエンディングを改訂しており、彼女の孤独な戦いの決着としては、そちらの方がよりふさわしいと私も思う。したがって、もしも読まれるのであれば『The Parasite』の方をお勧めする。1993年のHeadline Book版『The Parasite』は、先述のとおり『To Wake the Dead』のエンディングと新規書き下ろしの著者あとがきが付されており、決定版といえるものである。

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