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2007年1月の記事

2007/01/28

『嵐を突っ切るジェット機』

 新世界の日劇会館で、1961年の日活映画『嵐を突っ切るジェット機』を見た。小林旭主演のアクション物という私がまず見ないタイプの映画であるが、主人公が航空自衛隊のアクロバット・チーム「ブルーインパルス」の隊員でF-86Fセイバーの実機が活躍すると聞き、劇場で見ておこうと思ったのである。

 1961年というとブルーインパルスは設立されて間もないころで、おなじみの白地にブルーのラインが入った塗装もまだ採用されていない(東宝の航空映画『今日もわれ大空にあり』(1964)に協力したときに東宝側のデザイナーが考案したものだというのだが、いったい誰だろう?)。『嵐を突っ切るジェット機』では、当時のジェット戦闘機ならではの輝く銀の地肌にストライプのマーキングという初期型塗装のセイバーが大空を飛び回る。プリントの状態があまりよくなく少々赤みがかっていたが、それでも大きなスクリーンならではの迫力があってよかった。

 しかし、映画そのものは珍作というほかない。開巻まもなくアクロバット・チームの隊長が墜落死し、航空自衛隊の上層部は世論を恐れてチームの解散を検討する。その噂を聞きつけた主人公は基地司令にくってかかり、一般の航空隊に左遷されてしまう。その左遷先でも彼は無断で危険な曲技的飛行を繰り返したり同僚と殴り合ったりして、ついに2週間の謹慎処分となり、戦時中は戦闘機乗りだった兄が経営するオンボロ航空会社に身を寄せる。ところが、兄貴は戦後間もないころに世話になった韓国人ギャングに国外逃亡の手伝いをするよう強要されていて──と、せっかく自衛官を主人公にしていながら、たちまち日活お得意のB級アクションの世界に入っていってしまうのだった……。自衛隊に戦争させるわけにもいかないし、自衛隊内部のドラマなんて思いつかないしってとこなんだろうなあ。日活の、映画会社としての限界というべきか。

 小林旭の映画を全編通して見たのは初めてなので、彼がどういうキャラクターを得意にしていたのか知らないけれど、この映画の主人公は頭が空っぽで勢いばかりの男である。ニコニコ機嫌のいいときはなかなか愛嬌があるのだが、いったん機嫌を損ね出すと、たちまち眉間にしわが寄り眉毛がきゅうっとつり上がって目つきが変わる。自衛隊でもケンカ、オンボロ航空会社でもケンカケンカ。しかもなぜケンカをしかけるのか、ただ無闇にムシャクシャするばかりで自分でも理由が解らないとくる。マイトガイ・アキラ恐るべし。だけど周りもアキラに負けないぐらいケンカっ早いので、この映画ではみんな話し合う前にとりあえず手が出る。なんとも恐ろしい世界である。そしてその恐ろしさが、映画のクライマックスで強烈に炸裂する。

 ギャングは銃で兄貴を脅してビーチクラフトを操縦させ、アメリカ占領下の沖縄経由で海外に逃れようとする。アキラはオンボロセスナで後を追う。一方、ギャングを追っていた警部がその様子を見て自衛隊に電話して協力を要請、自衛隊は警部の電話一本だけで臨戦態勢になるのだった! 騒然となった自衛隊基地にアキラのセスナが舞い降りる。こんな飛行機じゃとてもギャングを捕まえられないと、アキラはF-86Fセイバーに勝手に乗り換えて再び飛び立つ! この世界にはシビリアン・コントロールが存在しないのか? たとえなかったとしても、自衛隊内の規律はどうなっているのだ?!

 折しも暴風雨が襲来し、嵐の中の追跡劇が始まる。まさしく『嵐を突っ切るジェット機』。実機にこんな危険なことはさせられないので、このシーンはミニチュア特撮になっている。当時としてはまずまず無難な仕上がりだが、それまで実機の迫力ある映像をたっぷり見てしまっているため、さすがに違和感は拭えない。このままギャングを捕まえるのかと思いきや、結局アキラはビーチクラフトを見失い、いったん基地に帰る。なんだ、これじゃ『嵐を突っ切れなかったジェット機』じゃん。

 嵐の去った翌朝、アキラはT-33シューティングスターに乗ってビーチクラフト捜索に出発する。なぜかアキラ機のみで、警察も自衛隊も出動していないのが非常に不自然。やがてアキラは、ある島の海岸にビーチクラフトが不時着しているのを発見する。その島にはうまい具合にジェット戦闘機でも着陸できるような飛行場があり、着陸したアキラは今度はジープに乗り換えて単身でギャングの待ち受ける海岸に向かう。こんな立派な飛行場があるなら、島内に警察もいるような気がするのだが……。丸腰のアキラめがけて拳銃を撃ちまくるギャングたち。しかし、ケンカ慣れしたアキラはギャングの一人を素手でやっつけて拳銃を奪うと、ほかの一人を何のためらいもなく射殺、見事ボスを捕まえるのだった!

 いやもう、ちょっとしたカルチャーショックでありました。この脚本では、今なら絶対に自衛隊の協力なんて得られないだろう。自衛隊の出動を要請することになる警部がアキラと初めて出会って自己紹介するときに、「警察も自衛隊も兄弟みたいなもの」などというのだが、おそらくこの映画のスタッフの認識そのままなのだろう。イイモノはイイモノ、ワルモノはワルモノ。おおらかな時代だったということだろうが、かくも乱暴な世界には、私はついていけません。

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2007/01/26

『新ドラキュラ/悪魔の儀式』

 ハマー・フィルム製作、クリストファー・リー主演のドラキュラ映画としては最終作であり唯一未ソフト化だった『新ドラキュラ/悪魔の儀式』のDVD[Amazon]が、ついに発売された。ハマー・フィルムは独立製作プロダクションなので、各映画のソフト化権はたいがい配給会社にありDVDの発売元もばらばらだったのだが、どういう経緯か今回のDVDはパブリック・ドメイン映画のソフトを専門にしているWHDジャパンという会社から発売されている。ともあれ、ホラー映画研究家の石田一を監修者に迎えたDVDシリーズの第一弾ということなので、今後も大手が手を出さないようなマニアックな作品の発売を期待したい。

 ハマーのドラキュラ・シリーズとされているのは、下記の9作品。

(1)『吸血鬼ドラキュラ』(1957)[Amazon]
(2)『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(1960)
(3)『凶人ドラキュラ』 (1965)[Amazon]
(4)『帰って来たドラキュラ』(1968)[Amazon]
(5)『ドラキュラ血の味』(1969)[Amazon]
(6)『ドラキュラ復活 血のエクソシズム』(1970)[Amazon]
(7)『ドラキュラ'72』(1971)[Amazon]
(8)『新ドラキュラ/悪魔の儀式』(1972)[Amazon]
(9)『ドラゴンVS7人の吸血鬼』(1973)


 (2)は、ピーター・カッシング演じるヴァン・ヘルシングの後日談ではあるが、ドラキュラはタイトルのみで本編に登場しない。(9)は香港との合作によるカンフー映画とのリミックスというヤケクソのような企画で、ドラキュラは出るもののリーではなくジョン・フォーブズ・ロバートソンという役者が演じている。したがって、リーのハマー版ドラキュラは以上2作を除いた全7作ということになるわけだ。このうち『ドラキュラ'72』と『新ドラキュラ/悪魔の儀式』は、それまでのシリーズが19世紀を舞台としていたのに対してドラキュラを現代社会に復活させるという冒険に挑んだ連作となっている。

 ハマーが得意としていた典雅なゴシック・ホラーと現代的な生々しいホラーを融合しようとした試みとして、『ドラキュラ'72』はそれなりに見どころがあるように思う。この映画ではドラキュラは、無軌道に暴れ回る現代っ子たちが好奇心から蘇らせてしまうという設定になっている。現代っ子といっても1970年代のそれなので、当時の風俗を絡めた若者たちの描写はさすがに今となっては古くさいのだが、それを遙かに上回る巨大な悪としてドラキュラが屹立する姿がなかなか格好良い。何より、ヴァン・ヘルシングとその子孫役でピーター・カッシングを再登場させ、ドラキュラとの時を超えた対決の構図から生まれる緊張感が映画全体を引き締めているのが好ましい。『凶人ドラキュラ』以来の「吸血鬼は流れる水を渡れない」というルールを濫用して、ドラキュラの配下が浴室のシャワーでやられてしまうというおマヌケなシーンを除けば、まずまず楽しめる映画に仕上がっている。

『新ドラキュラ/悪魔の儀式』は、『ドラキュラ'72』のストーリーを引き継いで作られた完全な続編である。今度はドラキュラは英国の上流社会に潜んでいる悪魔主義者たちによって蘇らされ、大財閥の長にして悪魔崇拝結社の首領となる。ドラキュラは新種の強力なペスト菌で人類を絶滅させてしまおうと画策しており、政府の諜報機関とヘルシングがそれを阻止しようとするという、まるでスパイ映画仕立てになっている。ところが、セールス・ポイントとなるべきアクション演出がどうにも間延びしている。大財閥をバックにしているはずの秘密結社が貧相に見えるのは予算のせいとしてまあ目をつぶるにしても、せっかく団員がヘルシングに秘密を漏らしている現場を押さえながら、仲間だけを始末して宿敵ヘルシングは気絶させただけで見逃してしまったりするようでは、とても本気で人類絶滅を計っている組織には見えまい。

 それ以上に困ってしまうのが、吸血鬼の弱点を多く設定しすぎていることである。まず、前作に引き続き水に弱い。結社のアジトの地下室にドラキュラの犠牲となった美女吸血鬼の群れが鎖につながれ、血を求めて蠢いているという凄惨な見せ場があるのだが、防火用スプリンクラーの散水で全滅という何とも尻すぼみな決着にがっかりさせられてしまう。なんだか水鉄砲でも撃退できそうな……。さらに、銀で作られた武器にも弱い。ヘルシングは銀の弾丸を作って単発ピストルに詰めてドラキュラを撃とうとして失敗するのだが、それならせっかく政府の諜報機関と組んでいるのだから、銀の弾丸を装填したサブマシンガンでも用意すれば楽勝だろう。とどめがサンザシの枝。キリストが磔されたときの冠がサンザシで作られていたために、西洋では魔よけに使われるのだそうで、ドラキュラに追われたヘルシングはたまたまサンザシの茂みを見つけてドラキュラをそこへ誘い込み、退治してしまう。ドラキュラうかつすぎ。もちろん日光や十字架にも弱いし、こうも弱点が多いと怖がれといわれても難しいのではないだろうか。

 ただ一つはっとさせられたのは、ドラキュラが人類絶滅などという自分の首を絞めるような計画(餌である人血がなくなってしまう)を立てた理由についての、ヴァン・ヘルシングの推測である。永遠に続く正邪の死闘に疲れ果て、ドラキュラは人類と心中を果たすことで自ら終止符を打とうとしているというのだ。まるで、ドラキュラ役に飽き飽きしていたというクリストファー・リーの心境を親友のピーター・カッシングが代弁しているかのようで、粗だらけの映画であるけれどこれはこれでリーのドラキュラ・シリーズの締めくくりにふさわしいのかもしれないという気持ちにさせられてしまった。

 画質はVHSビデオより若干上回る程度だろうか? 大手メーカーのDVDには比ぶべくもないが、パブリックドメイン映画のDVDとしては良好な方ではないかと思う。音質については、拙宅の再生環境がよろしくないのでコメントできない。特典映像としては監修者石田一がパイプ片手に語る解説と、ポスターやスチールのスライド・ギャラリー、予告篇があって、なかなか楽しい。正直なところ万人向けとはいいがたいが、ハマー・ファンなら買って損はないだろう。

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2007/01/25

『鼻のある男』

梅田正彦編・訳『鼻のある男 イギリス女流作家怪奇小説選』(鳥影社)[bk1][Amazon]

 昨年末にひっそりと刊行されていた、19世紀後半から20世紀前半にかけてのいわゆる「怪奇小説の黄金時代」に属するイギリス女流作家の作を集めたアンソロジーである。編訳者梅田正彦は米国カリフォルニア在住の英米文学者だそうで、2001年にも同じ版元から埋もれた英国作家の個人選集『床に舞う渦──バーナード・ケイプス怪奇小説選』[bk1][Amazon]を出している(こちらに当時私が書いた書評がある)。翌2002年の春には『幻想文学』第63号(アトリエOCTA)[bk1][Amazon]に「英国怪奇小説と私」と題したエッセイを寄稿し、その文中で本書をすでに訳了していることを報告していたから、何と予告以来4年も経って後の刊行ということになる。収録作は下記の8篇。

・ローダ・ブロートン「鼻のある男」
 Rhoda Broughton "The Man with the Nose"(1873)
・イーディス・ネズビット「すみれ色の車」
 Edith Nesbit "The Violet Car"(1910)
・ルイザ・ボールドウィン「このホテルには居られない」
 Louisa Baldwin "How He Left the Hotel" (1895)
・D・K・ブロスター「超能力」
 D.K.Broster "Clairvoyance" (1932)
・ヘンリエッタ・D・エヴェレット「赤いブラインド」
 Henrietta D.Everett "The Crimson Blind" (1920)
・アミーリア・エドワーズ「第三の窯」
 Amelia Edwards "Number Three" (1865)
・キャサリン・ウェルズ「幽霊」
 Catherine Wells "The Ghost"(1928)
・メイ・シンクレア「仲介者」
 May Sinclair "The Intercessor" (1932)

 なんとも薄気味悪い題名の「鼻のある男」は、何者とも知れない男の影に理由なく怯える新妻の不条理な怪異を描き、期待を裏切らない。ロバート・エイクマン流のストレンジ・ストーリーにも通じる味わいの佳品にもかかわらず、発表年度はヘンリー・ジェイムズが朦朧法の怪談を極めていった時期よりもやや早いことに注目されたい。ブロスターの「超能力」の訳題は、原題通り「千里眼」なり「透視」とした方がよかったのではないだろうか? ともあれ作品そのものは、呪われた日本刀を題材にしている東洋趣味と情け容赦ないゴア・シーンの取り合わせが何ともいかがわしくて、実にいい感じ。名のみ高く邦訳が待たれていたシンクレアの「仲介者」は、残酷な女性心理とその犠牲となって死んだ子供の霊の恐ろしさを生々しく描きつつも、ただ陰惨さに耽るのではなく最後はむしろジェントル・ゴーストストーリー的にまとめられていく。作者の筆力が窺える好編である。

 収録作の水準は総じて高く、しかもすべて本邦初訳のはずなので、古典怪奇小説のファンは必買だろう。上述のエッセイ「英国怪奇小説と私」には、W・W・ジェイコブズの傑作選も訳了しているように書かれていたのだが、こちらも近い機会にぜひとも出版していただきたいものだ。

 なお、「鼻のある男」の文中で触れられている画家について、こちらのブログに興味深い指摘があったので、ぜひ参照されたい。美術に疎い私には、気付きようもない話である。このブログ『奇妙な世界の片隅で』は「奇妙な味」系の翻訳小説を新旧問わず精力的に紹介し続けていて、商業誌の記事に負けないぐらいの読み応えがある。

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2007/01/14

「ゴジラのテーマ」の知られざる真実?

 前項に引き続き、『ミステリ・マガジン』2月号[Amazon]掲載の、大林宣彦と石上三登志による対談「『ゴジラのテーマ』の知られざる真実──映画的教養と伝統から成り立つ美談」について。

 この対談記事の「知られざる真実」とは、伊福部昭による「ゴジラのテーマ」(『ゴジラ』第1作(1954)のタイトル曲)のルーツが柳家金語楼主演の喜劇映画『社長と女店員』(1948)であることを発見したというものだった。『社長と女店員』は名画座などでもまず上映されないような映画なのだが、一昨年の秋にCSの衛星劇場で放映された。それをたまたま見ていた石上三登志は金語楼の似顔絵を使ったコミカルなタイトル映像にゴジラのテーマがかぶさるのに仰天、友人の森卓也に電話をかけたのだそうだ。二人は「きっと気づいたのは、日本でわれわれ二人だけなんじゃないかと大笑いしました」という。森卓也は同じ旋律がサスペンス映画『蜘蛛の街』(1950)にも使われていることも見つけ、ここから大林と石上は、伊福部昭がまず『社長と女店員』でこの旋律を初めて使用し『蜘蛛の街』『ゴジラ』と使い回したが、『ゴジラ』があまりにも有名になったため以後は転用しなかったので、「ゴジラのテーマ」として定着してしまったのだろうと推測している。

 では、どうしてそれが「映画的教養と伝統から成り立つ美談」なのか? 石上三登志はこの対談記事を発表することについて、映画評論業界の大御所である双葉十三郎に相談したのだそうだ。双葉は石上の話を聞いて、「それは美談だね」といったという。

石上 デリケートな問題なので、まず相談したんです。そしたら双葉先生がおっしゃるには、「ゴジラ」がなければ、せっかくの名曲が消えていただろうとね。そんな名曲を「ゴジラ」が救いとった……。

 映画は一本だけで成り立っているわけではない。過去に名作も駄作も合わせて膨大な蓄積があって、その上で新しい映画が作られていく。そういう歴史を見通して映画を語る視座を、若い世代に伝えていかなければならない。それがこの対談記事の本旨だというのである。その主張自体は、映画好きなら誰しも異論のないところであろう。

 だが、実は「ゴジラのテーマ」の旋律は、伊福部が戦時中から作曲を始め1948年1月に発表した純音楽作品「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲」(のち2度改訂され「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」と改題)にすでに使われている。『社長と女店員』の公開は同年の12月。つまりこの時点でもう流用なのである。『社長と女店員』ルーツ説は、「知られざる真実」どころか事実誤認でしかない。「ゴジラのテーマ」の旋律の正しい起源については、伊福部昭に関する研究書にはもちろんレコードやCDのライナーなどにも明記されており、ゴジラ/伊福部ファンにとってはほとんど常識となっている。たとえ知らなくても、「ゴジラのテーマ」についての記事を発表しようとするなら、まずこういった基本的な資料をチェックするべきではないのか。

 だいたい伊福部昭は、純音楽でも映画音楽でも頻繁に旋律を編曲し直して使い回すことで有名なのである。ファンの間では、「ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ」に『キングコング対ゴジラ』でコングを空輸する場面の曲の一節があるとか、吉村公三郎監督の祇園を舞台にした女性映画『偽れる盛装』のタイトル曲は『サンダ対ガイラ』のメーサー殺獣光線車マーチそっくりだとか、意外なところで馴染みの旋律が顔を出すのを語り合い楽しむことが定着してから、もう四半世紀ほどになるぐらいだ。ゴジラ/伊福部ファンは、若い映画ファン層の中でも際立って「映画的教養と伝統」を楽しむことに親しんでいるというべきだろう。

 もちろん『社長と女店員』についても、日本中で気づいたのが石上三登志と森卓也の二人だけだったはずがない。ネットを検索すれば個人のブログなどで驚きを報告している例は見つかるし、今はdat落ちして見られないが2ちゃんねるの懐かし邦画板の伊福部関連スレッドにも放映後間もなく書き込みがあって、私が『社長と女店員』のタイトル曲のことを初めて知ったのもその書き込みによってだった(ただし、CSは受信契約していないので、映画そのものは見ていない)。

 なのに大林宣彦と石上三登志は、彼らが「発見」した『社長と女店員』のタイトル曲とゴジラのテーマの関係が、ゴジラ・ファンによって封殺されるのではないかなどというおよそ根拠のない危惧を表明している。そればかりか、視野の狭いファンに遠慮して伊福部昭がこの流用を隠そうとしていたとまでいうのである。

石上 (前略)二〇〇二年が東宝の七十周年で、引き出物が「ゴジラ」の限定ナンバー付きDVDでした。そこに収録されている特典映像が伊福部さんへのインタヴューです。当然のようにインタヴュアーはあの曲の創造の原典を聞きたがるんですが、本当に話しにくそうに回避していましたよ。
大林 ファンを傷つけたくなかったんでしょうね。日本の国の文化の貧しさですよ。「いやあ、あの曲は他の映画で二度も三度も試みていましてね」と話が自由にできたときに「ゴジラ」の映画の価値も増しますよ。
(中略)
石上 ファンにいいたいんだけど、伊福部昭さんを「ゴジラ」にだけ閉じこめていたらいけませんよ。

 東宝創立70周年記念の限定『ゴジラ』DVDについては、私はネット上のどこかで(ネットオークションの出品だっただろうか?)情報として見かけたことがあるだけで実物を知らないのだけど、ソフトとしては一般販売されているDVDと同内容だったように記憶している。もしそうだとしたら、伊福部昭のインタビューには石上がいうような隠蔽の気配はまったく見あたらない。いや仮定を抜きにしても、あるはずがないのだ。前述の通り「ゴジラのテーマ」の起源については、伊福部の生前から何度も活字になっているし、伊福部自身が監修した「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」のCD[Amazon]の解説にも明記されているからだ。それに、伊福部が日本の純音楽作曲家としても映画音楽作曲家としても異例なまでにレコードやCD発売の機会に恵まれているのは、ゴジラおたくを中心にしたファン層が、特撮映画で馴染みの旋律を自在に変幻させる伊福部の作曲術を熱烈に支持してきたからなのである。対談の中で大林宣彦と石上三登志は、自分たちが『ゴジラ』を誹謗するはずがないと繰り返しているけれど、上に引用したような発言は、伊福部昭とファンの間で培われてきた絆を踏みにじる無思慮な言い草だといわれても仕方あるまい。

 この対談でも大林宣彦自身「当時、一映画ファンとしてこの「ゴジラ」に接した僕は名作とも思わず、日本でも怪獣映画を作ったかぐらいの感じでした」といっているぐらいで、そもそもこの二人は『ゴジラ』を始めとする日本の怪獣映画には決して好意的ではないことで知られていた。石上三登志に至っては、積極的に批判を展開してきたといっていいほどである。もちろん、批判すること自体は何ら問題ではない。事実を踏まえ、論理的な整合性を保った上ならば、だが──。たとえば石上は、彼の代表的な『ゴジラ』論である「ゴジラ 未熟怪獣の白昼夢」(『吸血鬼だらけの宇宙船』所収)で、伊福部昭が『ゴジラ』に付したレクイエム風の音楽について「『海ゆかば』調のメロディ」と評しているのだけど、、『ひろしま』『ビルマの竪琴』といった日本映画史上屈指の反戦映画を彩った音楽のバリエーションに属することを踏まえた上でなのかどうか。いずれにせよ、「映画的教養と伝統」を重んじた評言とはとてもいえないだろう。

 そういえば、自分が「ゴジラのテーマ」の出自を知ったのは、いったいいつのことだったか? そう思った私は、記憶を頼りにSF映画専門誌『スターログ』のバックナンバーを調べてみて、なんともやるせない事実に行き当たった。私の記憶にあった記事とは、『スターログ』1979年3月号(通巻No.5)の門倉純一による連載「SFサウンド」第5回「伊福部昭の世界その2」であった。門倉はこの連載第4回と第5回を費やして伊福部昭の国産SF映画での業績を振り返り、さらにゴジラ・ファンたちの熱烈な支持によって特撮映画のみならず、それまでほとんど顧みられなかった日本映画のサントラ盤までがようやく商業ベースに乗るようになりつつあることを紹介している。そして、「ゴジラのテーマ」の旋律が「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」からの流用であることにも言及していたのだ。

 この門倉純一による伊福部音楽の紹介と同時期(通巻No.4、6)に、大林宣彦と石上三登志が関わっていたあるゴジラ関係の記事が『スターログ』に掲載されていた。当時ゴジラ・ファンの怒りを買った悪名高い絵物語「スペースゴジラ」である。大林宣彦と石上三登志の原案から平田穂生が脚本化し、大友克洋と白山宣之がイラストを付けたというこの絵物語は、糖尿病(!)で瀕死のゴジラが日本の海岸に漂着するというショッキングな場面で始まる。その脳から取り出した意識からゴジラがゴジラ星から飛来した知的生命体で名はロザンであることが判明、日本政府はゴジラの体をロケットに改造して打ち上げ(!!)、胎内に見つかった子ゴジラ・リリンともどもゴジラ星に返そうとする。ロザンはゴジラ星に辿り着き夫クーニンと再会を果たすも、母星はスフィンクスに似た女性ばかりの半獣人スネリアの侵略を受けており、成長したリリンと父クーニンは「怒ると、巨大なオッパイからは火を吹き、ヘソからはカギ十字の手裏剣が飛び、目からはクモの巣が吐きだされる」(原文のママ!!!)おぞましいスネリアのガモニ将軍と対決することになる──と、まるでゴジラのキャラクター・イメージを汚すためだけに作られたのではないかといいたくなるような代物なのである。まあ、後に本家東宝が作った『ゴジラVSスペースゴジラ』(偶然タイトルが共通するだけで、この絵物語とはまったく無関係)もたいがい頭の痛くなるような映画ではあったが……。

 ともかく、大林宣彦と石上三登志がゴジラについての記事を発表しているのと同じ雑誌で同時期に、「ゴジラのテーマ」の起源についても伊福部昭とゴジラ・ファンとの間に映画的教養と伝統から成り立つ絆が形成されつつあることも、はっきり書かれていたのである。実に27年も前に、「ゴジラのテーマ」にまつわる真実は二人の目の前にあった。ところが彼らは、それを見ようともしなかったのか、あるいは見ても忘れてしまったらしいのだ。石上三登志は今回の対談の中で、「膨大な過去があることを踏まえず、自分に都合のいい部分だけでやっていると、オタクの落とし穴にはまってしまう」と警句を放っているが、それをまず心に留めねばならないのはいったい誰だろう? 大林宣彦のいうとおり、確かに日本の映画文化はまだまだ貧しいかも知れない。こんな対談記事が、映画関係のプロの仕事としてまかり通ってしまうのだから。日本の映画文化を貧しくしているのは、この二人のように自分のすぐ目の前にどのような文化が華開いているかを見ようともしない人々ではないのか。

【追記】
「ゴジラのテーマ」のほんとうのルーツ「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」に触れてみたい方には、伊福部昭自身の監修により作成されたCD「伊福部昭の芸術5 楽 協奏風交響曲/協奏風狂詩曲」(キングレコード)[Amazon]をお勧めします。

【追記その2】(2007/01/18)
 本文内に、主に映画データの関連リンクを埋め込んだ。そのついでに、我ながらあまりに文章がくどく長く感じていたので、ところどころ手直しして全体にスリム化を心掛けた(でも、まだまだくどい)。
 なお、「ゴジラのテーマ」の旋律の起源については、「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」からさらに遡って、ラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調」の影響を指摘する説もある。日本版Wikipedeiaの「伊福部昭」内の「誕生日とラヴェルの逸話」を参照。

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2007/01/08

『パプリカ』&『ミステリ・マガジン』2月号

 子供たちを私の両親に預け、夫婦で石清水八幡宮へ後厄払いに出掛けたついでに、梅田で筒井康隆原作・今敏監督のアニメ映画『パプリカ』を見た。他人と夢を共有できるDCミニという装置を開発している研究所があって、女性所員が悩みを持つ人々の夢に入ってセラピーを施している。「パプリカ」とは、夢の中で彼女が変身する蠱惑的な美女の名前である。ところが、このDCミニが何者か盗まれて、他人の意識を自分の夢の中に呑み込もうとするテロが仕掛けられる。とめどなく広がる犯人のおぞましい夢は、ついには現実まで侵食していく──というお話。

 読んでいないので原作とは比較できないのだけど、恐らくこの映画は、原作から相当改編されているのではないだろうか。他人の夢の中に入っていったり、他人の夢が自分の意識を侵食してきたり、さらには現実まで歪めるというようなSF的なイマジネーションをロジカルに説明しようとはせず、真正面から映像化してみせて観客をそのただ中に放り込むばかりという、映画にしかできないような手法を使っているからだ。

 いや、厳密にいうと、あちこちに手掛かりも散りばめられているようではあるのだ。だけど、それを立ち止まって吟味する暇を与えないテンポでこの映画のストーリーは進行していく。何かが掴めそうで掴めないもどかしさは、まるでこちらも夢を見ているかのよう。まるでセラピーを受けている患者よろしく、観客はパプリカに手を引かれてグロテスクな悪夢の世界を駆け巡るはめになるのである。

 とはいえ、最終的には勧善懲悪かつ登場人物たちが心に抱えるわだかまりの解明・解消という形で事態がすべて終息していくので、思いのほか後味はさわやか。説明を避けたためにSFらしい驚異は薄味だとか、もっと壮絶な恐ろしい映画にもできた題材なのにとか思わないでもないけれど、万人向けの肩の凝らない娯楽映画としては、うまく仕上げられているというべきだろう。

 映画を見終わった後、紀伊国屋書店梅田店で『ダ・ヴィンチ』2月号[bk1][Amazon]と『ミステリ・マガジン』2月号[Amazon]を購入。今号の『ミステリ・マガジン』は「モンスター大集合」特集である。先月末に出ていたのだが、私の家の近くには置いている書店がないのでまだ買えていなかったのだ。ちなみに『SFマガジン』を置いている書店は1軒だけあるが、毎月2冊しか入荷していないようで、そのうち1冊はずっと私が買っている。私が買わなくなったら、その店も入荷してくれなくなるのではあるまいかと思って、『SFマガジン』だけは何があってもその店で買うようにしている。

 さて、『ミステリ・マガジン』の特集の中身は、下記の通り。

【特別対談】
 大林宣彦&石上三登志 「『ゴジラのテーマ』の知られざる真実──映画的教養と伝統から成り立つ美談」
【短篇競作】
 ジョー・R・ランズデール「恐竜ボブのディズニーランドめぐり」
 ビル・プロンジーニ「いないいない、バア!」
 ニーナ・キリキ・ホフマン「男狂いの人喰いアメーバ」
 ハーラン・エリスン「38世紀から来た兵士」
 カール・エドワード・ワグナー「プラン10・フロム・インナー・スペース」
【映画&ブックガイド】
 尾之上浩司「モンスター翻訳小説30冊」
 小山正「ミステリ・ファンに捧げるモンスター映画10選」
【解説】
 尾之上浩司「ミステリ読者を魅了するモンスターたち」

 まるで毎夏好例の「幻想と怪奇」特集がお年玉として1回増えてくれたような嬉しいラインナップなのだけど、大林宣彦と石上三登志のゴジラに関する対談という意外な記事が目を惹いた。なぜ今さらこの二人がゴジラを?──とさっそく電車の中で読み始めたところ、あんまりな内容に開いた口がふさがらなくなった。

 以下、長くなるので項を分ける。

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