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2006/12/24

『硫黄島からの手紙』

 TOHOシネマズなんばで『硫黄島からの手紙』を観た。米軍視点の『父親たちの星条旗』と二部作で扱いで製作された、日本軍視点の硫黄島戦映画である。『父親たちの星条旗』が実話をベースに作られているのに対し、『硫黄島からの手紙』は半ばフィクション仕立てになっている。登場人物でいうと、栗林忠道中将や西竹一中佐ら有名な上級将校は実在の人物だが、二宮和也が演ずる西郷という兵士や下士官、下級将校らはほとんどこの映画のために創作されたキャラクターなのである。硫黄島の戦いは日本軍守備隊20,933人のうち20,129人が死んでしまったという戦闘だけに詳細が判らないところが多く、日本軍側の視点で史実通りに描こうとしても限界があるからだろう。

 そのおかげでというべきか、この映画は渡辺謙が扮する栗林中将と二宮和也の兵卒という2人の主人公を中心に、指揮する者たちとされる者たち双方の視点から硫黄島の戦いを立体的に描き得ている。硫黄島守備隊は戦うための装備どころか水や食糧まで充分ではなく、本土からの支援もあてにならないという最悪の条件下にあった。圧倒的に優勢な米軍に島を奪われることは、あらかじめ確定していたののだ。そこで司令官の栗林は、米軍に最大の犠牲を強い、本土侵攻を一日でも遅らせるために徹底した持久戦術を取ろうとする。だがその思いは、華々しく散ってこそ武人という旧弊な観念に囚われた部下の士官たちに歪められてしまい、兵士たちはしばしば無謀な突撃や集団自決を命ぜられ、虚しく死んでいくのである。

 こうした戦争が生む混乱の数々を、この映画は執拗に追い続けている。憲兵として国に奉じようとしたのに無意味な飼い犬殺しを命じられたり、敵戦車に体当たりせんと地雷を抱えて飛び出したのになぜか行き会えず生き延びてしまったり、鬼畜と信じていた米兵も同じ人間だと気づいたために逆に殺されたり──愛国心も功名心も人類愛も、何もかもが巨大な死と破壊の渦に巻き込まれ意味を失ってしまう。極力感傷を抑えて淡々と描写を積み重ねていくクリント・イーストウッド監督の演出は、観客をじんわりと出口のない地獄に追い込んでいくかのようである。ただ、混乱ばかりが強調されて戦況を説明するような戦闘シーンが極端に削られており、そのために硫黄島戦のアウトラインすら判りにくくなっているのは残念だった。監督としては、間違ってもアクション映画と受け取られたくないという思いがあったのかも知れないけれど、戦闘の推移が具体的に理解できた方が、よりいっそう戦いの過酷さが体感できたのではないだろうか?

 また、この映画はあくまでアメリカ人が作ったアメリカ映画なので、細部には首を傾げるところもやはりある。前述の通り半ばはフィクションであるということも含めて、ある程度割り切って鑑賞した方がいいだろう。それでもこの映画は、『父親たちの星条旗』と同じく観客自らが考えることを静かに促す姿勢に説得力があって、傑作とは言わないまでもかなりの力作だと思う。それに、今の日本人にはこれぐらいの水準で自国の戦争を描く映画をとうてい作れやしないのだから、軽々しく文句を言うべきではなかろう。

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