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2006年11月の記事

2006/11/26

『父親たちの星条旗』

 TOHOシネマズなんばで、クリント・イーストウッドが監督した戦争映画『父親たちの星条旗』を見た。タイトルの「星条旗」とは、太平洋戦争でも屈指の激戦である硫黄島戦(戦いのあらましについてはこちらを参照)の勝利の象徴として有名なこの写真の旗のことである。

Iwojima

実はこの写真は、最初に立てた小さな旗を海兵隊のある将校が私物として持ち去ったために、2回目により大きな旗を立て直したのを撮影したものだった。撮影後約1ヶ月も硫黄島での戦闘は続いていて、写真に写っていた兵士の半数は戦死、生き残った3人は戦時国債をかき集めるための広告塔に利用するために本国へ帰されたという、史実に基づいた映画だ。

 近代戦の本質は物量にあり、どれだけの物量をいかに効率的に投入できるかで勝敗は決まる。太平洋戦争も終盤のこの時期になると、日米両軍の戦力差はもはや圧倒的であった。装備も貧弱で航空機や艦船の支援がろくになかった日本軍の硫黄島守備隊に対し、当時世界最高水準の充実した装備と支援体制を誇っていたアメリカ海兵隊上陸部隊の勝利は、あらかじめ約束されていたようなものだったのだ。しかし、物量を構成する一単位でしかない兵隊たち一人一人の命は、そこでは消耗品でしかない。作戦決行前に、事前の空爆や艦砲射撃が10日間の予定だったのが3日間に圧縮されたため、上陸部隊の死傷者が何倍にも膨れあがるだろうと米軍の上層部がやりとりする場面がある。物量の投入量を変数とし、数学の問題のように死傷者の数まで予測できてしまうのである。兵士を満載し、硫黄島に向けて出撃する輸送船の大船団。上空を通過していく友軍機の群れに手を振っていた兵士の一人が調子に乗りすぎて海に落ちてしまうが、彼一人のために艦隊を止めるわけにはいかず見捨てられてしまう。戦艦や航空機の大軍による支援の砲爆撃は、まさに天を割り地を裂く凄まじさ。だが、生き延びた敵兵が放つたった一発の銃弾が当たれば、それで兵士個人の命はおしまいなのだ……。こうした戦争全体を支配する論理のマクロな視点と、そこに巻き込まれる個人のミクロな視点のギャップを視覚で理解させてしまうのは、映画ならではの力と言えよう。

 英雄などおらず誰もが交換可能なコマでしかない地獄のような硫黄島の戦場で、たまたま2本目の星条旗を立てるはめになった3人の主人公たちは、本国に送還されて虚像の英雄を演じることを強いられる。新たなコマを調達し、前線に送り込む資金を集めるために──。とかく情緒の押しつけばかりに偏りがちな日本の戦争映画とは違って、この映画は観客に自分で考えることを促すように作られている(こういう合理性ゆえにアメリカは戦争にも強いのだけど)。戦場を完全に再現できてしまう物量ともども、羨ましい限りである。前線と銃後を対比するために主人公たちの視点の時制をめまぐるしくカットバックさせているのは良いとして、そこへさらに父と戦友の体験談を聞く息子の視点までも織り交ぜてしまった語り口は、やや混乱気味。もう少し整理して欲しかったところだが、それでも見応えのある映画だったと思う。

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2006/11/08

『闇に葬れ』

ジョン・ブラックバーン『闇に葬れ』(論創社)[bk1][Amazon]
 ジョン・ブラックバーンは、スティーヴン・キング登場以前のモダンホラーの先駆者とされる作家の一人であるが、ホラーの通史などで触れられることはさほど多くなく、その作品もイギリス本国ですら新刊では入手できない状態が続いている。日本ではたまたま1970年代に『薔薇の環』『リマから来た男』『小人たちがこわいので』の3冊が邦訳されているがこれまた今では入手困難で、知る人ぞ知る作家というべきだろう。本書はこれら3冊以来、実に32年振りの邦訳である。

 ブラックバーンの作風の特色は、ホラーとSFとミステリをごた混ぜにしたようなジャンルミックス性にあると言われており、本書も《論創海外ミステリ》の一冊として異色の伝奇ミステリという売り出し方をされている。しかし、実際に読んでみると、本書はむしろ邦訳されたブラックバーンの4長篇の中ではもっともまっとうなホラーというべき作品であった。序章こそ英国国教会の主教が交通事故に見せかけて何者かに謀殺されるという至って現実的なものであるが、第1章ではそれが時代を遙かに先駆けた科学知識を持っていたらしい18世紀のオカルティストの遺産に絡んでいたことが示され、さらに第2章ではその男の墓所で超自然的な力の発現と思しき惨劇が起きる。以後19章に亘って、物語は現実的解決を否定する方向にまっすぐエスカレートしていくばかりであって、怪異の真相を巡り超自然とSFの間を揺れ動くことはあるものの、ミステリ的な決着を示唆することはまったくない。本書はあらかじめミステリであるという思い込みを持って読みでもしない限り、ミステリとして読みようがないはずなのである。

 伝奇と心霊と科学が交錯しつつ徐々に勢いを増していくストーリー展開はクォーターマス・シリーズの『火星人地球大襲撃』のようだし、終盤の壮絶なカタストロフはまるで『怪獣ウラン』。もし往年のハマー・プロがナイジェル・ニール(本年10月に死去したとのこと。合掌)の脚本とヴァル・ゲストの監督ででも映画化していたらホラー映画史上に残る傑作になったのではなかろうかと思ってしまうほどで、本書は分類困難な異色作というよりもこれら英国産SFホラーの正統に属する作というべきだろう。必要以上にキャラクターの心情や生活の描写に深入りしない皮肉な眼差しと、引き締まったテンポの良い語り口は近年の厚塗りモダンホラーには求むべくもないもので、だからこそブラックバーンは英米でも埋もれた作家になっているのではないかとも思われるけれど、前述のような映画タイトルや人名を耳にするだけでなにやらうずうずと血が騒いでくるような年季の入ったホラー・ファンなら、本書はこの上ないご馳走として堪能できることだろう。

 というわけで本書は、ホラー・ファンとしては版元の意向のように異色ミステリ扱いさせておくには忍びない作品なのであるが、こうして本国でも絶版の古い長篇の邦訳が読めるのは、熱心な愛好家に支えられた日本のミステリ出版のおかげであることもまた事実なので、何とも複雑な気持ちにされられてしまう。ともあれ、論創社はこの後も同じミステリ叢書で何冊かブラックバーンの長篇を邦訳してくれるようなので、楽しみに待つとしよう。

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