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2006年10月の記事

2006/10/22

『士魂魔道 大龍巻』

 大阪飛田の名画座トビタ東映で、稲垣浩監督の『士魂魔道 大龍巻』[Amazon]を見た。1964年の宝塚映画製作、東宝配給という古い映画である。大阪にはこういう古い邦画を見せる名画座が、JR新今宮駅を中心とした新世界・飛田地区の3館きりしかない。さらに東宝系の映画となると常時掛けてくれる小屋がなくて、このトビタ東映でたまに上映されるのを期待するしかないのである。この近辺は、若い女性や年少者だと一人では気軽に立ち入りにくいような大阪市内でも特別濃い地域で、古い作品を見るような映画ファンにとって大阪は、東京とは較べようもない劣悪な環境というべきだろう。

 通天閣などで全国的に知られる新世界が痩せても枯れても繁華街ではあり続けているのに対して、飛田は今やアーケード街も閉まっている店が多くて次第にスラム化しつつある気配である。私が飛田を初めて訪れたのは確か高校生のころで、トビタ東映と同じ建物にある洋画系の名画座トビタシネマに、一人で『シンドバッド虎の目大冒険』を見に行ったのだった。そのころはまだ飛田の商店街も活気があってそれなりの人数の買い物客が行き交っていたのだけど、アーケード街と交差して運行していた今はなき南海電鉄天王寺支線の踏切を堂々と小便しながら渡っている男に出くわしたりして、ちょっとしたカルチャーショックを受けたものである。

この界隈の映画館は週替わりの3本立て興業がふつうで、今回は『大幹部 無頼』と『フレンズ』という任侠映画が併映だった。場所柄、任侠映画の上映が多いのである。しかし、私はこの手の映画にはさっぱり関心がないので、目当ての『士魂魔道 大龍巻』の上映時間に合わせて劇場に行った。料金もたった800円だし、一本だけ見て帰ってもぜんぜん惜しくなはい。日曜の午後なのに、192席だという場内に観客は30人もいたかどうか? 場内禁煙の標示などどこ吹く風で、半数ぐらいの客はタバコをプカプカ吹かしている。本編上映前の予告篇は『続・悪名』に『続・鉄砲犬』。故田宮二郎が元気に暴れ回っていたりして、ちょっとした異次元の世界である。

 とはいえ、初めて見る『士魂魔道 大龍巻』そのものは、なかなかおもしろかった。まるで妖術使いがぞろぞろ出てくる伝奇物のような題名だが、そういうタイプの映画ではない。大坂城落城のために行き場を失った豊臣方の男女たちの運命の変転を描いた、歴史秘話風の群像劇なのである。ある者は豊臣家再興を目指し、ある者はそれを利用して徳川勢に取り入ることを画策し、ある者は辻斬りに身をやつし、またある者は商人に転身し──つまり士魂が魔道に迷うというわけだ。そして、こうした生々しい人間模様を、最後の最後に突如起こる大龍巻がすべて吹き飛ばしてしまうのである。

 結末の特異さを除けばこの映画は、純真な主人公が戦乱や権謀術数に翻弄されていくという、『柳生武芸帳』二部作や『大坂城物語』といった稲垣浩の娯楽時代劇によく見られるパターンに属する。主役の市川染五郎はまだ若かったせいか演技がやや固いが、少々間抜けに思われるぐらい真っ直ぐな青年という設定なので、かえって好ましく見えた。偶然彼と落ち延びることになり、反発しながらも次第に惹かれ合っていく気丈な女中を演じた星由里子も、息を呑むような可憐さであった。優しい心根ゆえに冷酷非道な辻斬りに墜ちていく佐藤允や、大坂城の飯炊きから豊臣方の残党も徳川方も手玉に取らんとする大悪党に化けていく戸上城太郎ら、脇役もみな好演している。だがしかし、主役の二人を見守る謎の虚無僧──実は豊臣方の大将明石守重──を演ずる三船敏郎の圧倒的な存在感には、誰も敵わない。虚無僧姿で正体を隠したって、異様に腰の据わった独特の歩き方は誰が見ても世界のミフネ。尺八一本だけで槍を持った敵兵どもをバッタバッタとなぎ倒してしまうわ、藪から棒に「時代の大龍巻にまきこまれて、自分を見失うなよ」などと物語の核心を突く言葉を発するわ、その予言を成就するかのようにほんとに龍巻は襲ってくるわ、もう人間とは思えませんって(笑)。

 大龍巻によって悪人はすべて死んでしまい、善男善女のみが生き残るのはいささかご都合主義的にも見えるが、これはいわゆる「機械仕掛けの神」ではなく文字通りの神意というか、卑小な人間どもを遙かに超えた大きな世界の存在を表そうとしたものであろう。それが完全に成功しているかどうかは微妙だけれど、そうした人智の及ばざる領域に思いを馳せる感覚が娯楽映画を律することができたという時代を、私は羨ましく思ってしまう。もし今こんな映画を作ったら、いったいどんな評価を受けるだろうか? この大龍巻の撮影には、円谷英二率いる東宝特撮陣が腕を振るっている。物語の設定上、町や集落が壊滅するような大スペクタクルとはいかなくて山間の一軒家とその周辺が吹き飛ぶだけであるが、その分木々が一本ずつ引き抜かれ飛び去る様や農家がバラバラに解体していく過程をじっくりと描いており、ビデオやDVDではなく劇場の大きなスクリーンで見た甲斐があった。

 特撮の見せ場としては他に、巨大な大坂城のミニチュアセットを用いた大阪夏の陣の戦いが冒頭にあるが、これはほとんどが同じく稲垣浩が監督した『大坂城物語』のフィルムの流用のようだ。よく見ると、その後のモブシーンや大坂の町の場面もけっこう流用が多く、しかもなぜか新撮と色調がかなり違うのがちょっと寂しい。大坂城の千畳敷が放火されて炎上するというような新撮による大セットの見せ場もあるものの、オールスター映画のわりには予算の厳しさを感じさせる作りになっている。1964年というと、そろそろ映画産業がテレビの猛追に圧されはじめてきたころである。原作が残酷系時代小説で有名な南条範夫だけあって東宝系の時代劇には珍しくけっこうえぐいストーリー展開になっているのと併せて、その後の邦画界を襲う時代の大龍巻を予感させるといったら、うがちすぎだろうか。

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2006/10/08

『いにしえの月に祈りを』

レベッカ・ヨーク『いにしえの月に祈りを』(ランダムハウス講談社)[bk1][Amazon]

 最近、海外のロマンス小説では、吸血鬼や狼男、タイムスリップなどの超常現象を題材にした《パラノーマル・ロマンス》というサブジャンルが流行っているそうだ。SFやオカルト的な要素を取り入れたロマンス小説は以前から散発的に出ていたようだけど、一つの潮流にまでなったのはこれが初めてだろう。ぼちぼち邦訳も出始めたので、新刊案内でたまたま目に付いたパラノーマル・ロマンスを、一冊試しに読んでみた。

 この小説のヒロインは、民間の生化学研究所に勤める研究員。彼女の研究所に、自分の家系に特殊な遺伝病があるのではないかと疑っている男から遺伝子プロファイリングの依頼がくる。この遺伝病というのが実は狼憑きで、男は狼男なのである。彼は自在に狼に変身できる能力を活かして私立探偵を営んでおり、凶悪犯を追い詰めては警察に引き渡していた。なぜかヒロインはこの危険極まりない男と一目遭った瞬間から猛烈な恋に落ち、男と連続猟奇殺人犯との命懸けの対決や、男の能力に疑いを抱いた刑事の執拗な追跡に巻き込まれていく──というお話である。

 こう要約するとディーン・クーンツ流のジャンルミックス・サスペンスのようだが、本書はあくまでロマンス小説なので、そのつもりで読まなければならない。狼憑きもサイコ・キラーも所詮はヒロインとヒーローの恋愛を盛り上げるためのスパイスに過ぎず、ホラーとしてもサスペンスとしてもごく薄味なレベルに留まっている。さらにロマンス小説の恋愛というのは、基本的に純愛ではあるが肉体的に結ばれることが大きなウェイトを占めるそうなので、何かというと「ああ、あの人としたい……けど、するべきではない……やっぱりしたい……」というような葛藤が繰り返し描かれる。何しろ二人の出会いの場面からして、ヒロインが遺伝子プロファイリングのためにヒーローの家を訪問し、猟奇殺人犯に撃たれた彼が丸裸のままで倒れているのを発見するという切迫した状況なのにもかかわらず、「男性特有の部分もかなり立派だ」と股間にじっと見入ったりしている始末なのである。割り切って読まないことには、「こいつら何を盛っておるのか?」と呆れずにはいられないだろう。

 もっとも、ヒーローが狼男であるという設定が、こうした極端なまでの性欲の強調にいくらか説得力を与えていることは、認めてあげないと不公平だろう。もともとどこか不自然なジャンルであるロマンス小説を、超自然的な設定が支えているというわけである。これ一冊でパラノーマル・ロマンス全体の傾向を断じることはできないけれど、ひょっとしたらそういうところにパラノーマル・ロマンス流行の一因があるのだろうかとも思った。

 ともあれ、本書はロマンス小説の読者向けの小説であって、ホラー・ファンがわざわざ手を出しても満足できるようなものではないので、話のタネに読んでみたいという方以外にはお勧めしかねる。しかし、ロマンス小説の読者には、いったいどういう評価を受けるのだろうか?

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