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2006年8月の記事

2006/08/13

『日本沈没』

 難波の千日前セントラルでリメイク版『日本沈没』を見た。実は公開2日目にも見ようとして劇場の前まで行ったのだけど、予想外の行列に臆して断念してしまったのである。当たっていると聞いたので、今日は混雑を避けようと朝一番の回に行ったらガラガラだった。『ゲド戦記』に客が流れたのだろうか?

 興行的な好調とは裏腹に最悪との評判ばかり聞くし、監督樋口真嗣の前作『ローレライ』が惨憺たる出来だったので覚悟して見たのだが、心配していたほどつまらなくはなかった。少なくとも『ローレライ』よりはいい。といっても、日本が沈没するという映画なのだから、その状況設定だけである程度までは楽しめるに決まっているのである。予算の壁のせいか旧映画版と較べるとずいぶん地震のシーンがずいぶん限られていて食い足りない感はあるが、それでも大画面で見る破壊のスペクタクルはとりあえずそれなりに楽しめるものにはなっている。だが、言ってしまえばそれだけの映画である。『ローレライ』はスーパー潜水艦の戦記という題材の基本的な魅力すらほとんど活かせていない映画だったから、それよりはいいという程度で、この『日本沈没』にしても「日本を沈没させてこの程度の映画しかできないのか?」と言われても仕方ないだろう。

 この映画は、全般に説明の手際が驚くほどぎごちない。かんじんの日本が沈没することが明らかになる過程もずいぶんあっさりしているし、沈没のメカニズムの説明は長文の字幕を多用している上に駆け足で、かなり解りにくい。旧映画版は、当時小学生だった私にもにも充分解るような作りだったと記憶しているが、今回の映画の説明は大人でもすんなり飲み込めないのではないか? せっかく沈没までの期限を1年弱と設定しながら、その後の日数の経過がはっきり描かれないのももったいない。例えば『宇宙戦艦ヤマト』の「地球滅亡まであと○○日」みたいな、しつこい盛り上げ方があっても良かったのではないか?

 何より、わざわざ原作のストーリーを改変して日本の沈没を止めようとする話にするのなら、もっと徹底してそうすべきだろう。沈没を止める方法が果たしてあるのか? どのようにそれを実行するのか? それを時間を掛けてたっぷりと見せるべきなのだ。旧版『日本沈没』と並ぶ国産災害SF映画の名作『妖星ゴラス』のように。それがこの映画ときたら、「沈没を止める方法はないのかしら?」と危機管理担当大臣が問うと、即座に田所博士が「あるよ」と答えてしまうんだから、ずっこけましたよ私は。計画の準備過程も、ほとんど描かれない。田所は必要な数の深海掘削船を調達するのがどうせ無理だと思うから対策法を伏せていたというのに、どうしてその数の掘削船を集められたのかも明らかにされない始末なのである。掘削船がずらりと並ぶ様はなかなか壮観だが、掘削作業の描写はあっさりしたものでさっぱり盛り上がらない。くどいようだが、ここは『妖星ゴラス』の南極ロケット基地建設の壮大さを見習って欲しかった。

 その一方で時間を割かれているのが、潜水艇のパイロット小野寺の葛藤と、ハイパーレスキューの女性隊員玲子とのロマンスである。しかしそのわりにこの2人、あまり魅力的なキャラクターにできていない。小野寺には何か超能力でもあるのだろうか? 彼は政府の要人でもないのに、混乱の極みにある日本国内を小綺麗な格好ですいすい移動して、避難所の知人の様子を見にいったり、郷里に帰ったり、レスキュー活動に従事中の玲子を訪問したり、対策本部の様子をのぞきに行ったり、まさに神出鬼没。小野寺役の草彅剛ののほほんとした雰囲気とめりはりのない演技のせいもあって、彼は霞を食べて生きている仙人か何かのように見える。玲子は阪神大震災で家族を失ったためにレスキューで働いているという設定であるが、演じている柴崎コウは人並み外れて細身なのでそんな仕事が勤まるような筋力があるようにはとても見えない。叔母のところへ引き取られ、近隣の住民たちと親しく過ごして育ってきた彼女は、イギリスからの誘いに応じて日本を脱出しようという小野寺に「叔母さんたちを見捨てるのか?」と反発する。なのに、小野寺からの愛の告白には「大事な人を失うのが嫌で、もう誰も好きにならないと決めて生きてきた」と答えるのでは、キャラクター描写が破綻しているではないか。

 この仙人のような小野寺が、玲子を始めとする日本でじたばたと生きていく人々との交流を通じて日本脱出を翻意し、「僕には守るべき人がいたんだ」と死を覚悟して沈没阻止のために旧式の潜水艇で深海に潜っていくのがこの映画のクライマックスになっている。原作や旧版映画の要であった日本論的な部分はばっさり削られているから(旧版のあの名セリフ「何もせん方がいい」 が形を変えて顔を出すので、てっきり「何もせん」と「何とかする」の葛藤がドラマの1つの軸になるのかと思ったら、顔出しだけで終わってしまう)、こうした個人の生をこそ見つめたいというのが今回のリメイクの主題なのだろう。そのせいで、映画全体がずいぶんこじんまりとした印象になってしまった。リメイクが旧版のとおりである必要はないし、災害を考える基本がつねに個人の生にあるべきなのは間違いない。しかし、国家規模の災害に際しては個人を超えた視点が生ずるのは当然のことであるし、そうした大きな視点を見せることが可能なことこそ『日本沈没』のようなSFの魅力のはずだ。それを自ら放棄してしまうなんて、何とももったいない話ではないか。個人を考えることと、国家を考えること。2つを両立させることが、現実の災害対策にも災害SF映画にも必要とされるはずなのである。

 ともあれ、興行的に成功しているらしいのは喜ばしいことである。国産の特撮スペクタクル映画に対する需要が確かに存在しているという証しだから、作り手はより一層の質の向上を──って、去年の『ローレライ』に始まる福井晴敏映画三部作のまとめとそっくりだなあ。

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