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2005/08/01

福井晴敏映画化三部作

 映画ファンサービスデーにかこつけて、妻と長男と三人で『亡国のイージス』を見に行った。『ローレライ』『戦国自衛隊1549』に続く福井晴敏原作映画の第三弾であるが、この『亡国のイージス』がもっとも出来が良かった。といっても、私の基準ではこれでようやく及第点。前二作が水準以下なのである。どちらも封切で見ていたけれど、国産の特撮映画や戦争映画はできるだけ応援したい気持ちがあって、公開中は正直な感想を当ブログに書く気になれなかった。この機会に三本まとめて書くことにする。
 その前にあらかじめ断っておくと、私は福井晴敏の小説の熱心な読者ではなくて、読んでいるのは『終戦のローレライ』[bk1][Amazon]と『∀ガンダム』(現在は『月に繭地には果実』に改題)[bk1][Amazon]だけである。『∀ガンダム』はまあガンダムのノヴェライズなのだが、『終戦のローレライ』はSF的なアイデアも盛り込まれているものの、いわゆる軍事スリラーないしはポリティカル・フィクション系の小説なのだろうと思っていたら、ぜんぜん別物だったので驚かされた。軍事的な考証はわりといい加減で、それはないだろうというようなことが次々起きるし、大仰に天下国家を語りたがる一方で世界観はやけに素朴で、絵に描いたようなユダヤ陰謀説まで無邪気に持ち出していたりと、リアリティに関しては悪い意味でマンガ的というか、どこまで本気なの?という感じなのである。ところが、膨大なページ数を費やして執拗に描き込まれた登場人物たちの激しい情念のぶつかり合いには、こうしたリアリティの欠如を補って余りある迫力があって、疑問を感じつつもぐいぐい引き込まれて二段組ハードカバーの上下巻計1000ページ超を一気に最後まで読まされてしまった。全面的に支持はできないが、この筆力には敬意を表さねばなるまい。

 しかし、映画版『ローレライ』は、小説版のこのような熱気をほとんど持ってはおらず、そのためにリアリティの欠如ばかりが目立ってしまっていた。関係者のインタビューなどによると、映画の原案を依頼された福井が書いた200枚を超えるシノプシスを元に小説版と映画版が作られたというが、映画版はその時点でもう失敗が決まっていたというべきではないだろうか。200枚というと通常の映画脚本そのものの長さだから、そんなに長いシノプシスを映画化するのはまず無理なのである。実際、この映画は、限られた尺にむりやり詰め込まれた山場を追っていくので手一杯になっている。大所帯の登場人物たちを掘り下げて描写するどころか、騒動の張本人とその一味の動機すらほとんど描けておらず、単に頭のおかしな集団にしか見えない。さらに、ストーリーの展開上きっちり説明すべきポイントをいくつも省略しているので、小説版を読んでいないことにはとさっぱり筋が通らず、全編が大仰なだけの茶番にしか見えなくなってしまっているのである。
 あの平成ガメラ・シリーズの特撮を担当した樋口真嗣の初監督ということで特撮についてはかなり期待していたのだけど、こちらも悲しい仕上がりだった。この映画では予算の制約もあって、ロケ地やプールに実物大の潜水艦セットを浮かべたりはせず、すべて屋内の特撮で海も潜水艦も作り上げているそうだ。基本的にCGを主体にミニチュアを併用しているとのことだが、肝心のCGがかなり未熟な上に、ミニチュアの映像までCGの画調に合わせて調整しているので、すべての特撮カットがまるでコンピューター・ゲームのような重量感のない絵になっている。潜水艦や海戦シーンは最近のハリウッド映画どころか、44年前の『地球の危機』の原潜シービュー号や36年前に円谷英二が撮った『日本海大海戦』にも及ばず、主人公とヒロインが初めて心を通わせあう重要なシーンも海の上に見えないどころか屋外にすら見えなかったりして、なんともやるせない気持ちにさせられたのだった。
 ──と言いつつ、実は伊507潜のデザインはけっこう気に入ってて、浴玩の《世界の艦船スペシャル ローレライ》も買い漁りましたけどね。いやもう、映画『ローレライ』の最大の功績は、400円で1/700のフレッチャー級駆逐艦の完成品モデルが買えるようにしてしまったことではないかと。

『戦国自衛隊1549』は、『ローレライ』と較べると手堅い仕上がりの映画ではあった。こちらは小説版を読んでいないのだけど、映画だけ見ても『ローレライ』のようにあちこち筋が通らなく感じるようなことはなかった。だが、またもや事件の張本人の動機が充分に描き込まれておらず、そのせいで彼を追う主人公たちとの対決がどうにも盛り上がらない。監督の手塚昌明は、かつて『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』でどうしようもないようなひどい脚本をそこそこ見られる映画に仕上げた実績があるのだが、今回は脚本の弱さをカバーしきれておらず、平板な印象を免れなかった。
 とはいえ、手塚監督のゴジラ・シリーズでの経験は、特撮でできることとできないことの見極めに活かされており、生の映像を主体に要所要所に特撮を挿入するという正攻法を採りつつ、違和感なく両者を繋げることに成功しており、安心して見ることができた。特撮の力を過信し暴走してしまった感のある『ローレライ』とは、対照的な絵作りと言えよう。だが、自衛隊の全面協力を得た反面、過激な描写や借り物の戦車や装甲車を乱暴に扱うことはできなかったようで、アクションはどれも控えめになっている。自作の模造戦車を使って迫力ある見せ場を作っていた旧版の『戦国自衛隊』と較べると、かなり寂しい。全般に、すべての面をほどほどのところにまとめてしまった感じで、食い足りない映画だったなあというのが率直な感想である。人によっては、すっかり破綻していても勢いを感じられる『ローレライ』の方が良いと感じるかもしれない。

 実をいうと『亡国のイージス』もまた、イージス艦を乗っ取るテロリスト側の論理や情動が充分に描かれてはいない。悪者は悪者、悪の組織ショッカーと同列、とわりきって見られないこともないのだけど、一方で何やら思わせぶりな回想シーンが説明無しに間に挟まれたりもするので、何とも落ち着かない。例えば、主要登場人物の中では紅一点である女テロリストなどは、どういういわくのある人物なのか何を思って行動しているのか、映画を見ただけではさっぱり判らない。
 しかしながら、男臭い映画を得意にしている阪本順治が監督しているだけあって、テロリストに狙われたイージス艦を守ろうとする海曹と、身分を隠して潜入していた特殊部隊員の命懸けの心の交流を、きっちり盛り上げてみせているのは良かった。私の見るところ、今回の三作のうち福井晴敏作品のむやみなまでの熱気をいくらかでも銀幕に移せていたのは、『亡国のイージス』のみである。主演の真田広之も、冴えない中年海曹が乗艦の危機を目の当たりにして立ち上がるという、ふだんの彼とは違ったイメージの難しい役を的確に演じているのには関心させられた。実物の自衛艦を借りたロケの迫力は申し分なく、『ローレライ』の貧相さとは雲泥の差。艦対艦の戦いの考証についてはまあ目をつぶるとして、銃撃戦や格闘のアクションもそれなりに様になっていたように思う。

 そんな次第で、『亡国のイージス』はそれなりに楽しめたものの、『ローレライ』と『戦国自衛隊1549』は水準に達していないというのが、私の評価である。三部作を見終わって強く感じたのが、「福井晴敏の小説は、映画化に向いていないのではないか?」という疑問だった。先述の通り福井作品のおもしろさは、登場人物の背負っている想いについての、くどいぐらいの描き込みに依存している。ところが、上映時間が限られている映画では小説ほど個々の登場人物を掘り下げる余裕がなく、もっとも健闘していた『亡国のイージス』も含めて、三部作が揃いも揃って悪役の側の論理や動機すら描写できていないのである。もともと映画化を期待して小説を書いているという福井晴敏には気の毒だが、彼の作風は映画ではなく、テレビのミニ・シリーズのような、じっくり時間をつぎ込める形式が相応しいのではないか。ホラー・ファンなら、スティーヴン・キングの小説の映像化の事情とよく似た話だと言えば、ピンとくるだろう。
 映画としての完成度はともかく、これら三部作はどれも興行成績はまずまず良かったらしい。国産の軍事アクション映画を期待する需要が、確かに存在しているということだろう。これからも同傾向の企画が出てきてくれることを期待したいが、その際には今回の福井晴敏三部作の興行的成功に甘えずに、より一層上を目指した映画を作って欲しいものだと思う。

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