2011/10/16

オペラ版『ねじの回転』

 大阪音大のオペラハウスで、オペラ版『ねじの回転』を見てきた(スタッフ・キャスト等はこちらを参照)。原作はいうまでもなくヘンリー・ジェイムズの幽霊小説で、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンがそれをオペラ化したものである。

 ジェイムズの『ねじの回転』といえば、幽霊がほんとうに現れたのか、はたまた語り手の妄想なのか判然としない書きぶりで読者を不安に陥れる、いわゆる「朦朧法」を用いた傑作として怪奇小説史上に名高い。いや、一般的には「意識の流れ」を用いた現代文学の嚆矢なのだろうけど、当ブログでは断然、朦朧法怪奇小説の確立者なのである。

 どちらにしても、すなおに考えれば、どうもオペラに向きそうにない素材である。いったいどう仕立てているのかと、以前から不思議に思っていた。さて実際に見てみると――やはり『ねじの回転』は、オペラには向かなかったようだ。ブリテンが『ねじの回転』の趣旨を理解していたのか疑問に思うほど、オペラ版は原作とはかけ離れていた。

 何しろオペラである。幽霊がいるもいないも、大声で歌って想いのたけを語ってみせるのだ。幽霊ここにありといわんばかりの、堂々たる押し出しぶりである。目撃者が誰もいないところで庭師ピーター・クイントと前任の女家庭教師ジェスルの幽霊が内輪もめする場面まであって、曖昧なところなどまったくありはしない。

 この幽霊同士の内輪もめが、懸命にすがるジェスルをクイントが冷たく袖にして少年を誘惑せんとするというもので、つまりクイントはバイセクシャルな悪魔的魅力の持ち主として描かかれている。1954年の初演では、このクイント役をブリテンの同性愛の愛人が演じたというのだが、執筆時からそのつもりの当て書きだったのではないだろうか。

『ねじの回転』は、幽霊の邪悪さを具体的に描くことは一切せず、読者に自由に想像させることで各々のうちから恐怖感を引きだそうとするところに技術上の要諦がある。幽霊は、読者のうちから現れるのである。このオペラのクイントはまさにそれで、原作のクイントそのものではなく、それに触れたブリテンのうちから生まれてきた幽霊にほかならない。オペラ版『ねじの回転』は、あくまでブリテンの創作物として味わうべきなのであろう。

 また、終始ゴシック的雰囲気が濃厚なビジュアルで飾られていたのも、『ねじの回転』らしくなかった。アカデミズムの世界では、ゴシック小説と近代怪奇小説との違いなど意識されないというか、むしろ怪奇小説をゴシック小説の傍流のように捉えるのがふつうなので、『ねじの回転』もゴシック小説との関連性を語られることが多い。だが、『ねじの回転』の舞台は中世イタリアの古城などではなく現代英国の私邸であり、雷鳴鳴り響く嵐の夜どころか穏やかに晴れた白昼に平気で幽霊は現れる。彼らはおぞましい容姿や声音で目撃者に脅迫的に襲いかかるのではなく、生前の姿のままでただ黙って佇んでいるのみである。つまり、『ねじの回転』はよりリアルな怪異描写のために、アンチゴシックを志向した近代的な怪奇小説であったのだ。

 ところが、今回の公演は、冒頭のブライ邸に向かう馬車の中の場面から真っ暗な舞台に朧気な灯りで照らし出すという不安感を煽る演出で、深海のような青色で埋め尽くされたブライ邸はまるでピラネージの牢獄を思わせる陰鬱さ。そこでは幼い姉弟が遊びに興じているのであるが、何だかもう、それがまた妙に恐い。忍び寄る悪の気配を真っ青な舞台と対照的に毒々しく赤いロープで象徴させ、悪が勢いを増すにつれ、一本また一本と天井から垂れさげる――原作の精神とは真逆に、ゴシック趣味を極めていたのである。

 しかしながら、『ねじの回転』が原作ということを忘れてあくまで幽霊譚のオペラと割り切って見れば、こうしたゴシック的意匠は好ましい見せ場といえるわけで、実際、私も大いに楽しんだ。『ねじの回転』の完全オペラ化などもともと無理なのであり、今回のゴシック的解釈は、そうした弱点を補完してオペラの特性を最大限に活かした趣向として大いに賞賛すべきであろう。

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2010/07/31

2010年7月の読了書から

 激安AndroidタブレットEken M001を買った第一の理由は、国会図書館近代デジタルライブラリーの電子書籍を快適に読めるのではないかという期待であった。近代デジタルライブラリーでは、蔵書をスキャンした画像データをJPEGもしくはPDFとして公開しているので、レイアウトは実物の本のまま変更できない。したがって画面の小さな端末では、まるで紙の本をルーペで読んでいるようでつらい。かといって、ノートPCやデスクトップPCで読むのも窮屈だ。本に近い感覚で読め、取り回しできる端末が欲しかったのである。

ここでポイントとなるのは、1行の表示領域がどれだけ確保できるかである。1行の端から端までが画面に収まっていないと、読み進むのにかなりストレスを感じる。つまり結局のところ、文庫をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ文庫サイズの画面が要るし、新書をスキャンした電子書籍を読むにはほぼ新書サイズの画面が要るということだ。若い人たちなら、解像度が高ければ実寸より少々小さい画面になっても読めるのだろうが、老眼が始まっている私のような世代には実寸準拠でないとつらい。

 そういう意味ではIPadやKindle DXのような10インチ級の画面が理想だが、端末の寸法や重量がそれなりに大きくなってきて、取り回しや携帯性にやや難が出てくる。ぎりぎり許容できるサイズを検討した結果、7~8インチ程度ではないかと考えた。Eken M001の7インチ画面の長辺は約15cmと、おおよそ四六判の1行の印字長と同程度だから、これならまあ何とかなるはずだと。

 ところが、実際にはそう簡単にはいかなかった。近代デジタルライブラリーでダウンロードできるPDFは、JPEG2000形式の画像データから作られている。この形式のPDFを読めるビューアソフトが、Androidにはまだ無かったのである。仕方がないので、PCのブラウザに表示されるJPEG画像データを1枚ずつダウンロードした。この画像がまた、本の周りに大きな余白が入っているという代物なので、PCの画像編集ソフトで印字範囲のみになるようにトリミング。これをSDメモリーカードでM001に移して、画像閲覧ソフトで読むという方法を採った。画像のトリミングはVIXというWindowsの画像ビューアソフト、Androidでの閲覧はDroid Comic Viewerを用いた。結果はこのとおり。

M001

 準備に恐ろしくめんどうな作業が必要であり、M001のタッチパネルの精度が今ひとつで誤動作にいらつかされることもあるものの、PCの画面で見るよりはずっと紙の本に近い感覚の読書環境ができあがった。そこで読んだのが下記の3冊。

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『豪傑児雷也』(大阪:中川玉成堂、明42.3)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『勇婦綱手』(大阪:中川玉成堂、明42.10)

神田伯竜講演、丸山平次郎速記『大蛇丸』(大阪:中川玉成堂、明43.3)

 前々月に読んだ『快傑自来也』が何だか期待はずれだったせいもあって、正調の児雷也が読みたくなったのである。この三部作は合巻の『児雷也豪傑譚』系で、書名の通り蛞蝓の綱手姫と大蛇丸が加わって三すくみの趣向となる。児雷也は盗賊ではあるが、その目的はお家再興のための軍資金集めにあり、弱きを助け強きを挫く義侠心を持つ。ストレートな悪役である大蛇丸の登場により児雷也はますますヒーロー化していき、最後には罪も許されて宿願を達成する。ヒロインの綱手姫は蛞蝓の術を使うのみならず、数人力の怪力を奮う。やたらと強いのに運命の人である児雷也にはデレデレというギャップが可愛らしい。まるで最近のマンガやアニメのヒロインみたいで、児雷也物も現代向けにアレンジすればけっこう受けるんじゃないだろうかと思った。

 この本に限らず、日本古来の怪談や伝奇物の概要を知るには、話し言葉で書かれており読みやすい講談速記本がもっとも手軽である。とはいえ、実物の古書はそれなりに高価だし状態が良くないものが多い。無料で電子書籍版が読める近代デジタルライブラリーは、実にありがたい。

 以下は紙の本。

佐藤至子『妖術使いの物語』(国書刊行会)[Amazon]
 日本の古典文芸・芸能に現れる妖術使いたちの姿を一般向けに概説したもの。「隠行の術」「飛行の術」「分身と反魂の術」というように見せ場としている術の種類によって系統を分けて紹介していて、たとえば「蝦蟇の術」の章を読めば、私が先月読んだ『快傑自来也』が天草四郎や天竺徳兵衛まで絡めた話になっていたのは、切支丹の妖術使いのイメージから蝦蟇の妖術使いが生ずる系譜を遡り統合する試みであったことが判る。平易な文章で書かれていて図版も多く、楽しくためになる本である。
『日本幻想作家事典』の伝奇時代劇映画/ドラマの項目は最終的にはSF系ヒーローへの推移に重きを置いた書き方にしたが、当初は主題別に系譜を追うことも検討していた。だが、かんじんの映画そのものの方が、こうした古典的な妖術師たちの系譜はほぼ戦前の映画で途絶えていてフィルムもほとんど残っていないため、断念したのである。同じ古典でも怪談物の主題は戦後までかなり受け継がれているのに、どうしてこうも差が生じたのだろうか。どうにか戦後も生き残ったといえるのは里見八犬伝と児雷也だけで、あとは全滅である。もちろんSFヒーローの台頭が一因となっているのだろうが、それにしてももったいないと思う。

大島清昭『Jホラーの幽霊研究』(秋山書店)[Amazon]
 Jホラー映画ブームから現代日本人の霊魂観を読み取ろうとしたもの。霊の実在を信じる一方で宗教による救済を持てないことが、Jホラーが得意とする止めなく増殖していく荒涼とした恐怖を生んでいるという指摘が興味深い。著者はそれを現代日本人の精神的な危機の現れと捉えている。とはいえ、霊魂の否定がただちに救いになるわけでもないし、いまさら宗教が救いになってくれるのかというと……。考えるほどに、ホラーとはまた違った寒々とした怖さに襲われる。

ステファヌ・オードギー『モンスターの歴史』(創元社)[Amazon]
 ヨーロッパを中心とした怪物に関する文化史──なのだが、空想上の怪物だけではなくて身体的な異常や精神的な病をもつ人々をも含む「異形の物」の文化史というべき本であった。広範な話題をうまくコンパクトにまとめているが、参考文献からの抜粋が巻末にまとめて掲載されている構成がちょっと読みづらい。

中島春雄『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)[Amazon]
 ゴジラを始めラドン、バラン、バラゴンなど、東宝特撮映画で多くの怪獣を演じた俳優の自叙伝。着ぐるみ方式の怪獣特撮は、当然ながら演技者の巧拙によってリアリティに大きな差が出てしまう。全盛期の東宝に較べて以後の着ぐるみ怪獣特撮がどこも今ひとつ精彩を欠くのは、中島春雄に匹敵する着ぐるみ俳優を育てられなかったからでもある。本書はどうやら聞き書きをまとめたものらしく、たいへんくだけた文体で読みやすい。特撮の現場ばかりでなく、撮影所所属の大部屋俳優の日常がいきいきと語られており、日本映画が元気だった時代の貴重な証言となっている。
 ただし、いくらか誇張も混じっているようにも思う。たとえば、怪獣同士の殺陣について、著者は円谷英二がすべて自分に一任したという。おそらく実際にそういうカットもあったのだろうが、操演の絡む尾を使ったアクションや事前の準備が必要なミニチュア絡みのカットなどは、着ぐるみ演技者の一存で仕切れるはずがない。しかしまあ、これぐらいは自伝や聞き書きには付きもの危険というべきだから、それによってこの本の価値が減じるとまではいえまい。

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2010/06/30

2010年6月の読了書から

 電子書籍ビューアとして、EKEN M001を買った。激安ニセiPadとかいってネットやテレビニュースでも報道された、中国産のAndroidタブレットである。
 現在のブームよりずっと以前から、ネット上には各種の電子書籍が出回っていて、紙の本では復刻に恵まれないような書籍を電子化して無料公開してくれているサイトもある。テキストファイルのようにレイアウトが可変であるデータで作られている場合は、私がふだん手帳として利用しているiPAQ Pocket PC h4150(WindowsCEのPDA)でもそれなりに読めるのだが、PDFのようにレイアウトが固定されるデータだと3.5インチの液晶画面では狭くてとても読めたものではない。そこで『日本幻想作家事典』の作業中には、国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵の怪談系書籍を仕方なくノートPCで読んだりもしたのだが、かなりのストレスがあった。画面の広いタブレット端末が、以前からずっと欲しかったのである。
 このEKEN M001は安いだけに品質管理がひどくて初期不良が続出しているという噂もあり、動作実績のある中古を入手した。たったの6000円。もし数ヶ月で壊れてしまっても、それほど惜しくない価格といえよう。しかし、実物を触ってみてびっくり。起動に恐ろしい時間が掛かる一方で、スリープにしても電池はみるみる減っていくわ、感圧式タッチパネルの感度が悪くて頻繁に誤認識するわで、さすがにパチモン扱いされるだけのことはあるなあと感心させられた。とはいえ、ほぼ新書サイズに相当する7インチ画面を搭載した筐体は、電子書籍ビューアとして携帯性と閲覧性のバランスが非常によい感じである。そのうち各社から端末が発売されるだろうから、本格導入までのとりあえずのつなぎとして、この機種をいじってみることにした。

平田晋策『昭和遊撃隊』(青空文庫)
 EKEN M001にフリーソフトの青空文庫テキストビューア「青い空」評価版をインストールした使用感テストを兼ね、再読してみた。昭和8年に「少年倶楽部」に連載された少年向け架空戦記小説で、日本海軍が極秘に建造していた新鋭艦船からなる艦隊「昭和遊撃隊」が、アメリカ軍の日本侵攻を退けるというもの。昭和遊撃隊は超高速・超強力な巡洋艦と潜水艦主体の編成で、戦艦は有していない。今なら大和もどきの超戦艦が出てきそうなところだが、戦前には読者の側にも現在のような戦艦偏重がなかったのだろうか?
 序盤から中盤にかけては最上級軽巡4隻が昭和遊撃隊の主力として大活躍する。だが、実在した最上級そのままではなくて、戦艦を上回る攻撃力・防御力を持ち、対空光線砲まで備えているという設定。それほどの高性能艦の艦隊ですら米軍の巨大爆撃機「荒鷲」編隊の猛攻に窮地に陥り、超重戦車「ライオン」部隊によりあわや日本は蹂躙されるかという時に、ようやく完成した空飛ぶ潜水艦「富士」が駆けつけ米軍を撃滅する。高い世評とは裏腹に軍事的・SF的な考証はめちゃくちゃなので、あくまで80年近く前の子供向け読み物として大らかな気持ちで楽しむべきである。
 また、悪玉アメリカ軍のボス役フーラー博士は東洋人に憎悪を抱く卑怯きわまりない人物として描かれていながらも、日本の少年相手には一定の道義心を見せ、さらに戦後この少年とフラー博士の息子の間には人種・国家を越えた共感が芽生えるという、未来への希望を感じさせる結末になっている。このころはまだ、単純に鬼畜米英撃滅という描き方でもなかったのである。

神狛しず『おじゃみ 京都怪談』(メディアファクトリー)[Amazon]
 メディアファクトリー編集部からご恵贈いただきました。ありがとうございました。
 第4回『幽』怪談文学賞短篇賞受賞作と新作書き下ろしの計6篇を収録したもの。受賞作の「おじゃみ」よりも、書き下ろしの「安全地帯」が断然よい。森羅万象が互いに害しあうことでつながっているとしか認識できない女子高生の物語で、思春期ならではの漠然とした不安に囚われ、青臭い感情のたかぶりを世界中にぶつけずにはいられない主人公の痛々しい姿に胸を打たれた。通り魔殺人の犠牲者となった友人の霊に「自分は解放されたがあなたはこの世界に生き続けなければならないのだ」という意味のことを言われる絶望的な結末が、たまらなく恐ろしい。
 出産に失敗し妊娠恐怖症になった妻と、妻が傷つくの恐れて彼女に触れられなくなった夫との断絶に植物幻想を絡めた「増殖」もおもしろかったが、自殺者の幽霊を混ぜた趣向が「安全地帯」の幽霊ほどには主題とうまく連携できていない憾みがある。「増殖」には幽霊が人を取り殺す場面もあるのだけど、奇矯なオノマトペを連発したために、そこだけまるでコメディのようで興ざめであった。このオノマトペの多用は「おじゃみ」も含めた数作に見られるが、概して滑稽感以上の効果は挙げていない。怪談だからグロテスクな感じを出さねばと考えたのだろうか? あまりジャンルの約束事は意識せずに自分なりの恐怖を突き詰めた方が、この著者は結果的にすぐれた怪談を生み出せるのではないかと思う。

谷一生『富士子 島の怪談』(メディアファクトリー)[Amazon]
 これも第4回『幽』怪談文学賞短篇賞受賞作と新作書き下ろしの計6篇を収録したもの。表題作「富士子」は、受賞作「住処」の改題。狷介で粗暴なおばはんが、他人の不幸を吸い取りやさしい人格に変えてくれる霊能者を自我に対する脅威と見なし、対決を挑むという話である。発表時に主人公の強烈なキャラクターがたいへん評判になったために、改題したらしい。これは怪談というよりドタバタファンタジーではないか?とも思うが、何にせよエンタテインメントとしてはありでしょう。書き下ろしの「浜沈丁」はその続篇で、富士子は前作で戦った霊能者と組んで外資によるリゾート開発に隠れた邪悪な何かと戦うことになるのだけど、何だかゴジラが善玉になっていった過程を思い出すのは私だけだろうか。
 怪談としては上記の「富士子」連作よりも、「友造の里帰り」や「恋骸」といった、精算せずに済ませた過去や心にわだかまる不安の象徴として僻島をうまく舞台にした作品の方を注目すべきである。故郷への愛憎入り交じる複雑な思いは普遍的なものといえるが、海を隔ててぽつねんと浮かぶ小島の風土が、そうした後ろめたい感覚をいっそう強める作用を生んでいるのが興味深い。

山本 弘『MM9』(東京創元社)[Amazon]
 刊行時に購入していながら今まで未読だったのだが、実写ドラマ化されるとのニュースを聞いて読んでみた。怪獣が繰り返し出現してきた架空の日本を舞台に、気象庁の怪獣災害対策チームの活躍を描いたもの。ありえない怪獣たちの出現をSF的に考証づけしてみせた手際には、たいへん感心させられた。
 しかしその一方で、チームのメンバーがみな魅力に欠けるために物語としては今ひとつ押しが弱く、マニア受け狙いの悪ノリばかりが目立っているのが難。裸の巨大幼女なんか自慢気に出されても……。どうしてそういう狭いウケ狙いに走るのだろう? 実にもったいない。

霞 流一『災転(サイコロ)』(角川ホラー文庫)[Amazon]
 金融ヤクザのボスの墓石がぐにゃりと曲がっていたという怪異を幕開けに、身体を内側から傷つけられた死体、空を飛んできたとしか思えない死体といった異常な惨死事件が相次ぎ、背後に呪いの掛かったサイコロの存在があった。それを追うの登場人物たちは、ハンマーを武器として操る墓石デザイナーの主人公を始め、ありえないような変人ばかり。さらに、明らかになる呪いのシステムがまた……。これは明らかに怖さよりも笑いを狙っているバカホラー長篇であり、徹底したナンセンスさには清々しさすら感じる。


倉阪鬼一郎『さかさ』(角川ホラー文庫)[Amazon]
 日本国内の聖域を守る聖域修復師を主人公にした伝奇ホラー・シリーズの第3弾で、今回は頭部がさかさになった呪いの人形を用いた海外からの霊的テロリズムに立ち向かう。経済的な優位を笠に着た日本という国のあり方がテロを招いたという問題提起を見せながらも、主人公は自分の努め以外一顧だにしないというドライさが倉阪らしい。

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2010/05/31

2010年5月の読了書から

加門七海、木原浩勝、東 雅夫、平山夢明、福澤徹三 編『怪談実話コンテスト傑作選 黒四』(MF文庫ダ・ヴィンチ)[Amazon]
東雅夫編『厠の怪 便所怪談競作集』(MF文庫ダ・ヴィンチ) [Amazon]

 以上2冊、メディアファクトリー編集部からご恵贈いただきました。ありがとうございました。

『黒四』は、裏の取れる実体験談にもとづく怪談実話作品のみを対象とした第1回『幽』怪談実話コンテストの入選作8篇と、それぞれの作者が新たに書き下ろした8篇を収録したもの。同じ怪談でも純然たる小説を志向する作品と実話物とを比較して優劣を判定するのは難しい場合もあり、怪談文学賞とは別に実話のコンテストを設けたのは正解だと思う。
 とはいえ、大賞を受賞した三輪チサ「黒四」は、そのような実話と小説の違いなどまったく意識させない作品であった。黒部第四ダムの建設工事にまつわる話で、臨場感溢れる土臭い筆致が高度経済成長の陰にわだかまる闇を浮かび上がらせ、間然するところがない。書き下ろしの「あなたのうしろにへびがいる」ともども、霊と人がともに在る世界観をまざまざと体感させる筆力に感嘆させられた。
 また、実話として読むとどうなのだろう? と思うものもあった。宍戸レイ「壁」は、地下にあるバーの床板を剥いだら沼だったという締めの場面が、いったいどういう状況なのか判らない。地下室のあるような建物なら、地階はコンクリートの基礎で囲われているはずで、床板の下がいきなり土壌ということはない。作者の直接の体験ではなく伝聞に依っているようなので、何か勘違いがあるのではないか。谷一生「井戸のなか」は、井戸に落ちて気絶したまま顔を上にして水に浮かぶものなのかどうか、ちょっと不思議に感じた。ランドセルの浮力のおかげならば、意識して泳がないことにはうつ伏せに背中が浮いてしまい、顔は水中に没しそうに思うのである。両作とも、そういう不可解なところも含めて怪談として楽しむべきなのかもしれないが。

『厠の怪』は書名のとおり便所にまつわる怪談集で、全9篇収録。ただ、便所そのものの寂漠とした怖さを主題とするのは難しかったようで、怪異の起きた場所がたまたま便所であるというにとどまるようなものもある。実話を集めた松谷みよ子「学校の便所の怪談」を除けば、少年の性に対する関心の後ろめたさをうまく絡めた福澤徹三「盆の厠」が、便所ならではの侘びしく心細い雰囲気にもっともよく迫り得ているように思った。
 便所怪談のもう一つの柱というべきスカトロ趣味では、平山夢明「きちがい便所」と飴村行「糜爛性の楽園」が凄絶を極めている。狂気度の高さではやはり平山が一枚上手であるが、飴村も長篇作品の大きな難点であった構成力の弱さが今作では目立たず、すんなり楽しめた。しかし、飴村の長篇に魅力を感じる読者だと、逆にもっとはじけて欲しいと感じるのかも知れない。

折原一『赤い森』(祥伝社)[Amazon]
 祥伝社編集部からご恵贈いただきました。ありがとうございました。
 富士樹海の奥にかつて一家惨殺事件が起きた山荘があり、その真相を追おうとした者たちが、次々と惨劇に見舞われるというスリラー仕立てのミステリ長篇。著者は叙述トリックを得意にしているとのことで、視点が目まぐるしく入れ替わる上に、過去と現在、現実と虚構が交錯して読者の目眩を誘う。登場人物たちが「こんなことで人を殺すはずがなかろう」と思わせるかんたんな動機でほいほい殺し合ったり、極端にゲーム性を押し出した作りになっている。そのため恐怖小説として楽しむのは難しく、怖いというより感心させられてしまった。

『快傑自来也』(講談名作文庫)
 昭和51年刊の古本。講談社が昭和29年に出していた「講談全集」の再刊だそうで、おそらくは講談の速記から再編したものなのだろうが、誰の口演を基礎にしているのかは書かれていない。
 自来也/児雷也の物語には、読本の『報仇奇談自来也説話』系、合巻の『児雷也豪傑譚』系の2つがあるらしい。大蛇丸や綱手姫が出てきて三すくみになるのは、後者の系統である。本書は一応前者の系統なのだが、なんと自来也の種本の一つである天竺徳兵衛その人が出てきて、自来也と二人して天草四郎の元に馳せ参じ島原の乱に参加するというクライマックスに改変されている。動機が復讐とか私利私欲ではなくキリスト教による世直しなので、なんだかスケールダウンしているように感じられた。ガマの出現場面で「ゴジラだーっ!」と言わせたりする妙なアップトゥデートとかもあったり、いろいろと興ざめ。珍書というべきであるが、弱ったことに現在、講談種の自来也でいちばん手に入りやすいのはこの本なのである。

『別冊映画秘宝 衝撃!超常現象映画の世界』(洋泉社)[Amazon]
 超常現象を扱った映画に関するムック本。一応は『第9地区』と『恐怖』の公開にちなんでいるらしい。『第9地区』は宇宙人映画とはいえ、オカルトっぽいところはぜんぜんないSFなのに。各記事は書き手によって水準がまちまちで、玉石混淆。個人的には、自分が苦手なために『日本幻想作家事典』の原稿で取り上げられなかった心霊ビデオの世界が大きく扱われているのがありがたかった。また、山崎圭司というライターの記事は、どれもよく調べて書かれていておもしろい。いちばんひどかったのは……まあ言わぬが花としておきましょう。

江口晋『海防艦第二〇五号海戦記―知られざる船団護衛の死闘 (光人社NF文庫)[Amazon]
「海防艦」とは、船団護衛や沿岸警備のために造られた、排水量が1000トンにも満たない小型の艦艇のことである。駆逐艦とは違って鈍足で、魚雷発射管はなく、主に航空機と潜水艦を退けるための小さな火砲と機銃、爆雷のみを装備している。日本の海上輸送を絶とうとする連合軍に対抗するために、戦時中には約170隻が急造された。その多くは艦名すら与えられず番号で呼ばれ、実に70隻が海に没する激戦を繰り広げた。太平洋戦争とは、そもそも南方の資源確保を巡る戦いであった。にもかかわらず、日本人の関心は艦隊戦を担当していた連合艦隊に不自然なまでに偏重しているため、海防艦については今なおほとんど一般には知られていない。
 本書は、敗色の濃くなった昭和19年末に海防艦に乗り組み、無事生還した水兵の回想録である。壊滅しつつある日本海軍に対し敵の兵力は圧倒的で、「海戦記」とはいうものの勇ましいエピソードはほとんどない。そもそも護衛が任務なのだから何もないのが一番、執拗な敵の猛攻を避け生きのびるための悲壮な戦いばかりである。過酷な戦いを繰り返すうちに、特殊潜航艇の乗員として華々しく特攻することを望み海軍を志願したはずの著者が次第に生への執着を取り戻していく心の動きが、たいへん興味深かった。

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2010/04/30

2010年4月の読了書から

Sydney Horler"The Screaming Skull"(Hodder and Stoughton)
 1月に読んだ"The Vampire"の著者の短篇集で、全7篇を収録。初版は1930年で、私が入手したのは1952年のリプリント版である。収録作は怪奇小説だけではなくミステリやフットボール小説など多種多様で、ホラー・ファンの興味を引きそうなのは、下記の3篇のみ。

(1) The Screaming Skull
(2) The Vampire
(3) Black Magic

(1)は、人を殺す叫び声を発する髑髏があるという幽霊屋敷と、マッドサイエンティストの発明を利用した国際的陰謀を結びつけたジャンルミックス・サスペンス。(2)は、長篇版"The Vampire"のプロトタイプらしき掌編。ただし、吸血鬼は色魔の外国人などではなく、自分が吸血鬼であることに苦悩しているイギリス人であり、最後は自殺してしまう。(3)は、著者が生んだ心霊探偵セバスチャン・クイン物の一篇で、他人を意のままに操る魔力の持ち主との対決を描いたもの。

 本書については後日、長篇"The Vampire"と併せて再度ご紹介する予定なので、詳しくはまた改めて(って、いつだろうねえ……)。

加門七海『「怖い」が、好き!』(理論社)[Amazon]
 自身も「見える」体質であるというホラー作家が、なぜ我々は幽霊を恐れながらも惹かれるかを語った年少者向けの本。これは評価が難しい本である。著者が著者だけに、本書の背景には幽霊がいないことになっている世界で幽霊を見てしまうことにどう折り合いを付けるかという問題があって、安易な肯定論に陥らないように細心の注意を払いつつ慎重に議論を進めようとしているところが大きな魅力になっている。だが、それでもなお、ターゲットにしている年少者がこれを読むと、実体験者である著者の言葉の重みに圧倒され、幽霊の実在を一方的に信じ込んでしまいかねないような気がする。
 見えない者にはなかなか理解しがたいことだが、見える者にとっては幽霊が実在するか否かとは関係なく、幽霊は現れる。いくら否定しても、見えるものは見えるのである。そしてその衝撃は、幽霊が実在するか否かとは関係なく、幽霊が現れることの意味を追わずにはいられなくするだろう。否定するにせよ肯定するにせよ、超常体験談に触れるにはまずこのような心の機敏を理解するべきなのだが、これは知識や経験の充分でない年少者にはなかなか困難なハードルである。本書は年少者には、あまりにも魅惑的で危険かもしれないと思うのである。

権藤芳一、中川彰、露野五郎『日本の幽霊─能・歌舞伎・落語─』(大阪書籍)[Amazon]
 古典芸能で描かれた日本人の幽霊観について、能・歌舞伎・落語の権威がそれぞれ語った講演の書籍化。1983年の発行で、現在は絶版品切れになっている。権藤芳一「能の幽霊」は、幽霊の出る演目を詳細に分類して紹介しており、一度通読しただけではとても頭に入りきらないものの、手引きとして役立ちそう。中川彰「歌舞伎の幽霊」は、歌舞伎史との関係や代表的な演目、実際の上演の様子等、広い話題を解りやすくまとめている。以上の2部はいかにも研究者の講演なのだが、露野五郎「上方噺の中の幽霊」は噺家によるものだけに自らの体験をベースに実演もまじえたものになっており、かなり趣が異なる。元が講演だけに読みやすく、よい入門書だと思う。

月村了衛『機龍警察』(ハヤカワ文庫JA)[Amazon]
「機甲兵装」なる搭乗型ロボットが兵器として普及している近未来の世界で、警視庁が機甲兵装を使ったテロに対抗するために結成した特殊部隊の活躍を描くアクションSF。高いスキルを買われた3人の傭兵あがりによるチームが警察内部の反感と板挟みになりながら苦闘するストーリーは、類型的ながらもそれなりに楽しめる。しかし、目玉の機甲兵装がどういう兵器なのか、いまひとつ練り込まれていないのが気になった。
 いくら高速で動けても二本の足で歩くのでは車両より遅そうだし、50口径の弾丸に耐えられない装甲だというから、よい標的になるばかりだろう。そんな脆弱な兵器がどう画期的なのか、ぜんぜん説明がない。装甲車に対するアドバンテージがあるとしたら、極端な不整地や建物内部(といってもサイズ的にかなり制限される)に入れることぐらいのような気がするのだが。また、50口径の機銃はミニパトぐらいの車にだって据え付け可能だし、数人がかりにはなるが人力で運用することもできる機銃ではなくライフルなら、一人でも扱える。警察が高価な機甲兵装をわざわざ導入する必然性が、どうも感じられないのである。娯楽小説としては及第点でも、SFとしては食い足りないと言わざるを得ない。

白井弓子『WOMBS』第1巻(小学館)[Amazon]
 地球からの移民同士の内戦が繰り広げられている惑星を舞台に、女性兵士に土着生物の子を宿させることで転送能力を持たせる特殊部隊を描いたSFマンガ。架空の惑星の風物やそこに生きる人々の心情がていねいに描き込まれ、物語に深みを与えるともに、荒唐無稽なアイデアに説得力を持たせている。これぞSF。『機龍警察』に欠けているものが、まさにここにある──っていじわるな言い方だけど、そういうことなんだよなあ。
 妻に「このマンガおもしろいよ」と勧めたら、逆にこの作家のデビュー作『天顕祭』(サンクチュアリパプリッシング)[Amazon]を勧められた。これもヤマタノオロチ伝説を題材にした伝奇ファンタジーながら世界大戦後の未来の話で、架空の社会をリアリスティックに描いていく感触はやはりSF的だった。この作者は何というか、SFの魂のようなものを持っている人なのだと思う。

ピーター・コノリー、クリスティーヌ・ジョリエ『ローマ軍の歴史(カラーイラスト世界の生活史 24)』(東京書籍)[Amazon]
 1980年代後半から90年代初めにかけて邦訳出版されていた「アシェット版カラーイラスト世界の生活史」叢書の一冊。いきつけのブックオフでこの叢書のうち10数冊が並んでいるのを見掛けて試しに買ってみたのだが、これが大当たり。70ページほどの分量ながら、ローマ軍の歴史、装備、編成、戦法などが美麗なイラストを添えて解りやすく紹介されており、たいへんおもしろかったのである。またそのブックオフに行って、『ポンペイの人々』『城と騎士』『イスラムの世界』等、よさそうなものをさらに6冊買い込んだ。ネットを検索すると、このシリーズにはけっこう高価で取引されているものもあるようで、それも頷ける水準である。こうした叢書の企画は現在ではより安価な分冊百科に取って代わられてしまったが、探せばほかにも良いシリーズがあるのではないだろうか。

木俣滋郎『戦車戦入門 日本篇』(光人社NF文庫) [Amazon]
 戦車戦のノウハウを説いた入門書──ではもちろんなくて、旧日本軍の戦車部隊の歴史を綴った本。木俣滋郎の戦史本は資料として読むものではなく、名調子の講談を聞くように楽しむものである。「日本軍」ならぬ「我が軍」の苦闘がまるでその場で見てきたかのように思い入れたっぷりに語られるのを、大らかな気持ちで読む。細かいミスに気づいても、突っこんだりしてはいけません。日本は戦車後進国だったのでどんどん悲惨な話になっていくばかりなのであるが、逆に浪花節な気分を堪能できるともいえよう。

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